三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな 〜菊地敬一氏 1/2〜

今回も「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな」でお付き合いを。これは梅田望夫さんの著書「ウェブ時代をゆく」で下記の文章に大変感銘を受けたことをきっかけにスタートしております。

「三十歳から四十五歳」という難しくも大切な時期を、キャリアに自覚的に過ごすことが重要である。(P194)

だとしたら、具体的にどうすれば自覚的に過ごすことができるのかと考えている中で出会ったのが、梅田望夫さん提言の「ロールモデル思考法」であります。

「好きなこと」「向いたこと」は何か漠然と自分に向けて問い続けてもすぐに煮詰まってしまう。頭の中のもやもやは容易に晴れない。「ロールモデル思考法」とは、その答えを外界に求める。直感を信じることから始まる。外界の膨大な情報に身をさらし、直感で「ロールモデル(お手本)」を選び続ける。たった一人の人物をロールモデルとして選び盲信するのではなく、「ある人の生き方のある部分」「ある仕事に流れるこんな時間」「誰かの時間の使い方」「誰かの生活の場面」など、人生のあらゆる局面に関するたくさんの情報から、自分と波長の合うロールモデルを丁寧に収集するのだ。

今回は、この方の生き様に惚れ、勝手に師匠と呼ばせて頂くとともに、中小企業診断士としてこの方のアナログとデジタルを高度に融合した革新的な経営手法に大変感銘を受け、勉強させて頂いている方です。

その男の名はヴィレッジ・ヴァンガード創業者、菊地 敬一。

見上げる天井に飛行機がぶら下がり、店内にはアメ車。ビリヤード台の上に本が山積み、そのそばにはお菓子や面白雑貨が黄色の手描きPOPとともに大量陳列。書籍の品揃えは新刊書やベストセラーに頼らない、店長のこだわりが色濃く反映された品揃え。「遊べる本屋」をテーマに書店の概念を覆す一大ワンダーランド王国を築き上げた男。菊地敬一。

その店作りの破天荒振りに、書籍業界から冷ややかな目で見られながら細々とスタートしたヴィレッジ・ヴァンガード。菊地さんの店作りは時代のカルチャーに強い関心を持つ20代の若者に圧倒的な支持を得て、業界の予想を裏切り、業績は急拡大しています。

ヴィレッジ・ヴァンガードは今年で創業23年。その店舗数は全国261店舗。出版不況の中2001年3月より88か月連続で前年同月比売上高を上回るという快挙を達成し、現在売上高は276億円まで急拡大。また創業以来営業利益率は10%以上を維持、これは書店業界屈指の利益率であります。この高収益体質を書店業界の他企業と比較した資料は、 kongou_ae さんの60坪書店日記の「公取が神な理由」で、見ることができます。是非チェックしてみて下さい。

もちろん私は生粋のヴィレヴァンファン。20代のころから通い詰め、ヴィレヴァンで様々な新しいものと出会ってきた、まさしく「ヴィレヴァン・チルドレン」であります。

そんな、私だけでなく、多くの人々の人生に大きな影響を与え続けるヴィレッジ・ヴァンガードを一大全国チェーンに育て上げた菊地敬一。その足跡を追っていきたいと思います。


菊地敬一の足跡 〜いかに大切な三十歳から四十五歳を過ごしたか〜

自堕落な学生時代、7年かけてやっと卒業

北海道の本屋もない超田舎町で生まれ育った菊地少年。最初に本を買ったのは高校3年、しかも汽車で一時間かかる帯広の30坪ほどの「田村書店」。「ここには日本中の本が全部集まってるんじゃないか」とびっくりするぐらい。この時の菊池少年に後の全国一大チェーンのオーナーの影は全くありません。

そんな菊地少年は、めでたく青山学院大学法学部に入学。しかししかし。ここから「自堕落な生活」がスタート。。菊地さんが「プロレタリアート・トライアングル」と呼ぶ、(1)クリーニング屋のバイト、(2)バイト仲間との雀荘でのマージャン、(3)駅前の貸本屋に立ち寄る、このサイクルを見事に回し続けます。また途中で「報道写真家になる」と言って学校を休学。写真大学におく準備を進めるものの、仕送りを止められ、「プロレタリアート・トライアングル」に依存する日々。すでに手に入れたカメラ・ニコンFはとうに質流れ。「まあいいや。どうなったって。。」と瓶の蓋でトリスを飲み悪酔いする日々。。そんな生活を経て、菊地敬一は7年かけてなんとか青学を卒業します。このとき25歳。

模索を続けたサラリーマン時代、そしてやっと天職を発見

そんな自堕落生活、おまけに卒業に7年かかった学生を雇ってくれる会社はなかなか見つかりません。そんな中、何を思ったのか菊地さんは先物取引の会社・西王商事に入社。菊地さんが馴染めるはずがなく、入社3か月で脱走。そして日本実業出版社に入社、本の直販セールスを4年間続けます。その後、当時の上司・大和田康司氏が創業した「ブックショップ大和田」に入社。菊地さんはこのブックショップ大和田時代に書店経営や書店業界について初めて学びます。そんな中、支店の開店に伴い店長を任されます。このとき32歳。

この時の菊地さんが考えたこと、実践したこと。これがヴィレッジ・ヴァンガードの原点であり、今も何も変わらない、菊地さんの「美学」となっていくのです。

菊地さんはここで人員管理、仕入・返品業務など、店舗運営について学びながら、書店経営における粗利益率の低さ、取次からのパッケージ配本など、書店経営の矛盾を強く感じるようになります。そこで菊池さんは「小さな実験」を試みます。書店の中の一つのコーナーで、雑誌のバックナンバーや、マイナーなコミックなど、菊地さんの価値観とセンスを爆発させた書棚づくりを試みたのです。これがお客さんから大好評。実際よく本が売れます。「うれしかった。天職だと思った。」菊地さんは長い模索の時代を経て、ようやく天職にめぐり合うことができたのです。そして「自分流の書棚で店内を埋め尽くしたい」と強く思い始めるのです。このとき、37歳。

苦しい船出を経てヴィレッジ・ヴァンガードスタート

自分流の書棚を「面白い」と評価してくれた奥様の真紀子さんを巻き込み、菊地さんは「自分流の店を作る」と決意。金融機関の融資に加え、自宅マンションを売却、奥様の貯金も取り崩し、開業資金2,000万円を確保。一人娘さんも無理やり転校させ、名古屋市天白区の中古の農業用倉庫にヴィレッジ・ヴァンガード一号店を開店します。このとき38歳。

「菊地さんの美学の店。3店舗が限界。」業界ではヴィレッジ・ヴァンガードを見る目は冷ややかそのもの。「新刊やベストセラーに頼らず、売りたいものをわかってくれる人だけに売ろう」と意気揚揚とスタートしたものの、お客さんはほとんど来ず、閑古鳥状態が続きます。しかし、菊地さんたちは自ら信じる道を突き進みます。売上の何倍にもなる仕入を繰り返し、入荷に等しい返品を鬼のようにやる日々を繰り返しながら。。。

しかし、奇跡が起こります。開店半年を経過し、お客さんの数が徐々に増加。「変てこな本屋」を面白がってくるお客さん。地をはっていた売上は開店一年で目標の450万円を上回り1,000万円に。口コミでヴィレッジ・ヴァンガードの評判は瞬く間に広がり、リピーターが急増。菊池さんの「美学」はお客さんの圧倒的な支持を得て、書店業界の常識をひっくり返したのです。このとき39歳。

貫いた信念、そして一大全国チェーンに成長

1985年に夫婦二人で始めたヴィレッジ・ヴァンガード。1988年に2号店を出店後、徐々に店舗数を増やしていきます。1996年には10店舗目を出店したこのころ、ヴィレッジ・ヴァンガードは「菊池敬一の美学」を維持しながらも、もはや菊地敬一だけのものではないほど巨大な存在に成長していたのです。このとき49歳。

当時増加しつつあったショッピングセンターなどの商業施設が、ヴィレッジ・ヴァンガードの集客力に注目し、出展要請がひっきりなし。相手側の誘致であるため、保証金なし、家賃も好条件。出店費用をかなり抑えた形での出店が可能に。この追い風の中、1996年には関西進出、1997年には関東、北海道、九州進出。そして2000年には四国進出。そして2002年に店舗数が100店を突破した後、2003年にジャスダック上場。このとき56歳。

自堕落な大学生活で卒業に7年を要した菊地敬一は、自分の天職を探し続け、そして出会い、そして自分の美学を貫き、ついに上場企業のオーナーとなったのです

そしてヴィレッジ・ヴァンガードは今も創業当時の「遊べる本屋」というコンセプト、そして菊地さんの「美学」が変わることなく、私達に新しいカルチャーとの出会いを提供し続けながら、全国各地に細胞分裂しながら増殖し続けております。

菊地敬一、そしてヴィレッジ・ヴァンガード。私にとっては一生大切にしたい宝物の一つであります。

次のエントリでは、菊地さんの足跡から私が学んだ「自分ラボを持つ」という考えについて書いてみたいと思います。


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