三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな 〜祖母井秀隆〜

あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。年末年始とばたばたしており、更新が滞りがちで申し訳ございません。。新年一発目は「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな」で。梅田望夫さんの著書「ウェブ時代をゆく」で下記の文章に大変感銘を受けたことをきっかけにスタートしております。

「三十歳から四十五歳」という難しくも大切な時期を、キャリアに自覚的に過ごすことが重要である。(P194)

だとしたら、具体的にどうすれば自覚的に過ごすことができるのかと考えている中で出会ったのが、梅田望夫さん提言の「ロールモデル思考法」であります。

これは、「好きなこと」「向いていること」の答えを自分の中ではなく「外の世界」に求め、自分の直感で選んだ人物を「ロールモデル(お手本)」と位置づけ、また一人だけを盲信するのではなく、多くのロールモデルの、あらゆる局面の情報を丁寧に収集し、学び続けるという考え方であります。

今回ですが、サッカー界における世界的名将、イビツァ・オシムジェフユナイテッド市原への招聘に成功、ジェフ市原の躍進に大きく貢献後、当時フランス2部リーグ所属であったグルノーブル・フット・38のGMに就任し、就任1年目から45年ぶりの1部リーグ昇格を成し遂げた男、祖母井秀隆(うばがいひでたか)。

以前、30歳から45歳を無自覚に過ごすな 〜ジョゼ・モウリーニョで、プロ経験ゼロで世界最高の監督に上り詰めた、現在イタリアセリエAインテルの監督、ジョゼ・モウリーニョを取り上げた際、ブックマークのコメントの中で祖母井さんのことをご紹介頂いた方が何人かおられました。この度祖母井さんの著書「祖母力(うばぢから)」を拝読し、モウリーニョに負けず劣らずのすさまじい生き様に感銘を受け、是非取り上げてみたいと思い、今回のエントリーに至っております。

いじめられっこで、練習を苦にサッカー部を一週間で逃げ出してしまうような少年だった祖母井秀隆。そんな祖母井さんがなぜオシム招聘、仏グルノーブルでの成功など、数々の快挙を成し遂げることができたのか。祖母井秀隆の足跡を追ってみたいと思います。


いじめられっこがサッカーに目覚める

1951年、4人兄弟の長男として生まれた祖母井少年。小学校5年生のリレーでの失敗をきっかけにいじめられっこになってしまった祖母井少年は、中学の担任の先生に促され、初めてサッカーボールを蹴る機会を得ます。サッカーの魅力に取りつかれた祖母井少年は、サッカーの名門校、報徳学園に入学。しかし、周りはサッカーのエリートばかり。。少年は入部一週間でサッカー部から逃げ出してしまいます。。しかし、サッカーをあきらめきれなかった少年は、再入部を志願。もともと少年が持っていたガッツを買っていた当時の監督は、この申し出を快く受け入れてくれます。

高校3年生になり、ようやく試合に出してもらえるようになった祖母井少年。サッカーへの情熱は留まることを知りません。なんと少年は、「海外のサッカークラブでプレーしたい!」との思いから、あのイギリスの名門、マンチェスター・ユナイテッドに「練習生として参加させてほしい」という手紙と写真を送りつけます。親にも仲間にも笑われる祖母井少年。。残念ながらマンチェスターからは、「お手紙ありがとうございます。送って頂きました写真だけでは当クラブとしては判断しかねます。ご了承下さい」との返事。。この行動力を見ても、やはり祖母井少年はただのサッカー少年ではなかったんですね。

破天荒なドイツ留学

そして体育教師になるために大阪体育大学に入学後も、外国サッカーへの思いは募るばかり。当時唯一外国人コーチを配していた読売クラブ(現在のヴェルディ川崎)に、祖母井さんはまたもや手紙を送りつけ、今回は熱意が通じ、めでたく練習生に。その後クラブに帯同し、1974年の西ドイツワールドカップ観戦のために西ドイツ遠征を経験。ここで「ドイツに行きたい!」という思いが爆発します。。

お金が全然ない中、どうすればドイツに行けるか。。祖母井さんは思案の末、とんでもない行動にでます。当時祖母井さんは正式にサッカー選手として読売クラブに入団していましたが、クラブに違約金を支払い、半年で退団。。ドイツサッカー留学ツアーにドイツ語通訳として同行し、そのまま日本に帰国せず、ドイツに居ついてしまったのです。当時23歳。

ドイツ・ブレーメンに渡った祖母井さんは、アルバイトで何とか食いつなぎながら、4部リーグ所属のBTSノイシュタットに入団。一時期ドイツ語を学んでいたブレーメン大学でのマルクス・レーニン主義の講義の連続にノイローゼをなり、一時日本に帰国しましたが、その後ケルン体育大学に入学、本格的にコーチ学を学び始めます。当時26歳。

そんなドイツ生活の中、その後の祖母井さんの進路を決定づける出会いが生まれます。ドイツの町クラブ・BCエッフェレンでの中学生以下の子供たちのサッカー指導のチャンスを得ます。とはいえ、メンバーたった9人、これまでの試合はすべて10点差以上という弱小チーム。。しかし祖母井さんは子供たちにケルン体育大学で学んだコーチング手法を思う存分発揮、万年ビリのチームに勝利をもたらすと同時に、「選手の育成こそが僕の目標」と、紆余曲折を経てついに自分の在るべき場所を見つけたのです。当時27歳。

大体大2軍監督としての快挙、そして挫折

選手の育成に大きな喜びとやりがいを見つけた祖母井さんは、母校大阪体育大学(大体大)サッカー部コーチに就任します。しかし、旧態依然の精神論主導の指導法に猛反発。恩師の仲裁もあり、祖母井さんは2軍の監督を務めることで決着を見ます。ですが、この2軍監督としての快挙が、のちの祖母井さんの飛躍を決定づけるものとなるのです。

祖母井さんは「2軍は1軍の控え」との位置づけをゼロクリアにし、地域の社会人リーグに参戦すると宣言します。地域の社会人リーグというのは、勝ち上がっていけば、日本リーグ(現在のJリーグ・J1に相当)への昇格も夢ではないという存在。祖母井さんは大体大2軍を「体大けまり団」と命名、大体大1軍をよそに、日本リーグ2部(現在のJリーグ・J2に相当)昇格を目標にチームをスタートさせます。当時33歳。

祖母井さんはドイツ習得した最新のコーチング手法、戦術を大胆に取り入れ、また海外遠征なども積極的に行いながら、「体大けまり団」はどんどん力をつけていきます。そして2軍監督就任4年目、日本リーグ2部昇格トーナメントに進出、ここで勝てれば夢の2部昇格でしたが、プロ一歩手前の社会人チームに敗れ、トーナメント最下位に。。

それでもあきらめない「体大けまり団」。翌年の1991年、中心選手を1軍に奪われながらも残留組が奮起。再度昇格トーナメント進出を果たし、トーナメント最終戦をロスタイムでの同点ゴールにより、トーナメントを2位通過。ついに「体大けまり団」は大学のチームでは快挙の日本リーグ2部昇格を果たしたのです。当時39歳。

しかし祖母井さんと「体大けまり団」を待っていたのは信じられない結末でした。

日本リーグ2部での戦いに備え合宿に入っていた「体大けまり団」に、1軍監督から「リーグ昇格辞退」の要請がきます。理由は「経費がかかりすぎる」こと。。祖母井さんはそのような横槍もすべて想定し、事前に学内の根回しを済ますほか、すでにドイツのフィルムメーカーのスポンサーも獲得していたのです。それでも2部昇格は実現しませんでした。祖母井さんは責任を痛感し、大体大サッカー部から身を引くことを決心します。当時40歳。

しかし、この「体大けまり団」、そして祖母井秀隆の快挙を、サッカー界は見逃すことはありませんでした。

ジェフ市原 育成部長就任、そしてオシム招聘

コーチの職を辞し、大体大助教授として何か満たされない日々を過ごしていた祖母井さんに、大体大2軍監督としての快挙を高く評価した横浜フリューゲルズ、ガンバ大阪からトップチームのヘッドコーチのオファーが舞い込みます。しかしドイツBCエッフェレンでの子供の指導から始まった祖母井さんの「育成」という仕事への思いから、祖母井さんは、当時弱小チームであったジェフユナイテッド市原の「育成部長」のポジションを選択します。当時42歳。

しかし、夢と希望を抱き入団したジェフ市原は、3年単位でのクラブ上層部の入れ替わり、それに伴う運営方針の頻繁な変更、ずさんな管理の選手寮、門限も守られず、朝帰りはあたりまえ。。しかし祖母井さんは怯むことなく指導者の意識改革からスタート、選手の自己管理を徹底させるとともに、クラブの硬直した組織改革にまで乗り出します。

しかしいっこうに上昇しないチームの成績。。ここでも祖母井さんは「僕に150万円ください!」と高らかに宣言、自らが持つヨーロッパの人脈をフル活用し、ジェフ市原初の外国人コーチの招聘をスタートさせます。その後も祖母井さんは、ドイツケルン体育大学での盟友、ズデンコ・ベルデニックを監督に招聘するなど自らの人脈で優秀な外国人監督を招聘、ズンデコ就任2年目の2002年にはリーグ年間3位と過去最高の成績をおさめます。そしてそのズデンコの後任であるベングロシュの後任監督を探していた祖母井さんが招聘を目指したのが、あの名将イビツァ・オシムだったのです。

祖母井さんはオシムに毎日電話するも、オシムの返事はのらりくらり。。もう時間の猶予がない祖母井さんは監督就任の確証もないまま空路オーストリアグラーツに向かいます。そこで待っていたのは、祖母井さんの熱意に負けたオシムの笑顔でした。そして2003年1月17日の深夜、ついに祖母井さんとオシムは正式に契約を交わします。当時50歳。

オシム監督は就任してすぐに、オシムサッカーの代名詞「走って考えるサッカー」をものにするために、選手たちにすさまじい練習量を課します。就任初年度の選手たちの休暇はわずか5日。。しかしこの練習量は確実に成果となって表れ、オシムジェフ市原の監督に就任してからチームは一変。その成績は素晴らしいものでした。

  • 2003年 リーグ戦 前期3位、後期2位、総合4位
  • 2004年 リーグ戦 前期7位、後期2位、総合4位
  • 2005年 リーグ戦 総合4位、ナビスコカップ 優勝

そして、そのジェフでの実績を高く買われたオシムは、2006年7月21日、サッカー日本代表監督に就任するのです。当時祖母井さん、54歳。

55歳での渡仏、飽くなき挑戦心

ジェフで素晴らしい成果をあげた祖母井さんの意欲は安住を許しませんでした。そのチーム運営手腕を高く評価するJリーグのチームから多数の魅力あるオファーが届く中、祖母井さんは、当時フランス2部リーグで低迷中のクラブ、グルノーブル・フット・38のGM就任というイバラの道を選択します。当時55歳。

祖母井さんはGM就任から素早くチームの意識改革に着手。同時に数々の障害がある中、当時の監督と強化部長を解雇。選手も大幅な入れ替えを断行し、チームの一新を図ります。

そんなフランスで奮闘する祖母井さんに、日本にいるオシム監督の息子、アマル・オシムから信じられない電話が。「ヒデ。救急車を呼んでくれ。親父が倒れた。。。」日本での救急車の呼び方がわからないアマルは、一縷の望みで祖母井さんに電話をしたのです。祖母井さんはフランスから救急車を手配。オシム監督はなんとか一命を取り留めたのです。

その後祖母井さん率いる一変したグルノーブルはフランスリーグ2部で勝利を重ね、そして祖母井さん就任たった一年で、なんと45年ぶりの一部リーグ昇格を果たすのです。フランスでも認められた「世界の祖母井」誕生の瞬間でした。祖母井秀隆。現在56歳。

グルノーブル一部昇格を報じるスポニチの記事

祖母井さんからのメッセージ 〜「リスクを冒す」〜

一箇所に安住せず、いくつになっても挑戦することを止めない男、祖母井秀隆。祖母井さんは著書「祖母力」の中で、こんなメッセージを残しています。

日本のサッカーに欠けているのは、技術でも体力でもセンスでもなく、リスクを恐れず前に進む気持ちだと思うのです。(中略)ところが日本では、そういう人間があまりにも少なすぎます。リスクを冒して生きる人がもう少し増えなければ日本は変わらない、と僕は常々考えています。(「祖母力」 P178-179)

「リスクを冒す」。祖母井さんだけでなく、オシム前代表監督も良く使っていた言葉です。先日1月5日、オシム監督は母国オーストリアに帰国しましたが、300人のサポーターが訪れた成田空港で、オシムさんは貧血で真っ青になりながらも1時間サポーターに熱弁を振るい、「君たちはもっとリスクを冒せ」と熱く語ったそうです。

「リスクを冒す」。この言葉の意味をもう少し噛み砕いてみたいなと色々と思い巡らせている中、梅田望夫さんのエントリー直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 、そしてその中のこの言葉を思い出しました。

自分の直感を信じ(つまり自分を信じるということ)、自分が好きだと思える「正のエネルギー」が出る対象を大切にし、その対象を少しずつでも押し広げていく努力を徹底的にするべきだ。そういう行動の中から生まれる他者との出会いから、新しい経験を積んでいけば、自然に社会の中に出て行くことができる。

つまり、「リスクを冒す」とは、「自分の直感を信じて、前に進む」ということではないかと思ったんですね。

祖母井さんの生き様を見ても、「自分の直感を信じる」ということを痛感させる場面が多数あります。ドイツ旅行のツアーガイドに潜り込み、そのままドイツに居ついてしまった23歳、Jリーグのビッグネームのオファーを蹴り、「育成こそ我が行く道」とジェフの育成部長を選んだ42歳。。

昨今の厳しい経済環境、そんなときだからこそ、一人一人が自分の「直感」をもっと大切にし、「自分の直感を信じて、少しリスクを冒してみる」。新しい年を迎えるにあたり、祖母井さんから大きな勇気が詰まったメッセージを頂いたと、とても嬉しく思っております。

最後は祖母井さんの力強い一言で終わりたいと思います。祖母井さんがフランスで益々大暴れしてくれることを心よりお祈りしております。

なにもトライしていないのに「できない」と言ってはいけないのです。(「祖母力」P41)

祖母力 うばぢから オシムが心酔した男の行動哲学

祖母力 うばぢから オシムが心酔した男の行動哲学

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箭内道彦著「サラリーマン合気道」からの珠玉の3つの言葉

長らくご無沙汰しておりました。。以前自分の仕事を作る〜ブック・ディレクター幅允孝(情熱大陸より)〜でも少し紹介させて頂きました、新進気鋭の広告製作会社「風とロック」の代表で、現在NHKトップランナー」の司会者でもある箭内道彦さんの最新著書「サラリーマン合気道」。私は以前より箭内さんの大ファンで、少し前にこの著書も読んでいたのですが、最近再読しました。この著書には箭内さん独自視点の45の仕事術・言葉が紹介されているのですが、断腸の思いで45個から私的に大切にしたい3つの珠玉の言葉を選びまして、ご紹介したいと思います。


まず「サラリーマン合気道」とは。。

箭内さんは依然より「クリエイティブ合気道」という言葉を語っておられまして、それをクリエイティブ業界だけでなく、幅広くビジネスパーソンにも広げてみようよというのが箭内さんの主張です。

合気道」という武術は、柔道・相撲などの自分の力のみで相手を打ち負かすのではなく、相手の力を利用してより遠くに相手を投げ飛ばす武術なんですね。この考え方を私達の仕事にも生かせるのではというのが「サラリーマン合気道」。下記の箭内さんの言葉で「サラリーマン合気道」の真意、伝わりますでしょうか。

自分ひとりで思いつくことなんてあまりにも小さい。だって、天才でも手品師でもないんだから。相手と向き合って初めてそこから生み出せばいい。そのことに気がついて、少しでも楽になってもらえたら幸せです。(「サラリーマン合気道」P213 あとがきより)

つまり、自分の個性やこだわりばかりに縛られるとおのずといつかは限界が来る、そうではなく、仕事相手やその時の空気に「流されてみる」ことにより、実力以上の力が発揮できるのではないか、というのが「サラリーマン合気道」のエッセンスであります。

私が思う「サラリーマン合気道」、箭内道彦氏のすごさ

この本を手にとって頂くとよくわかるのですが、かなり極端な逆張りの主張が展開されています。例えば45個の言葉のうちの1番目、「アイデアは書き留めない」。。箭内さんは、「ひらめいたアイデアをメモしたり書き留めたりしてはいけない」とおっしゃってるんですが、それはなぜかという理由、これがかなり腹落ち良いのです。

イデアというのは変化していくものであり、その日のニュースや、たわいもない会話などを受けて「化学反応」を起こすもの。なので、アイデアをメモすることにより文字や図にして輪郭を固めてしまうと、アイデアが周囲の環境の影響を受け、化学反応を起こす機会を奪うことになり、アイデアがより良いものに育っていかない、というのが箭内さんの主張です。

このように、極端な逆張りの主張が腹落ち良く論理立てて説明できるのは、それだけ箭内さんが実体験で悩み、必死でその答えを見つけようとした軌跡によって、思考が化学反応を起こして、ひとつの珠玉の言葉になってるんだと私は思います。「わかりやすくて深い」んですよね。。

では、さっそく珠玉の3つの言葉です。

珠玉の言葉1:仕事に私情を紛れ込ませる

私も結構そうなんですが、「これは自分の仕事と言えるような仕事をしたいな」と思いながら「これって誰がやっても一緒じゃないだろうか」などと悩んだり不安に思ったりすることがあると思います。そこで箭内語録なんですが。。

仕事にプライベートなメッセージを込めることで、自分の仕事だという実感を持つことができる。そして、それは世の中に対してより届く仕事になる(「サラリーマン合気道」P180より)

箭内さんは、広告の仕事に「勝手に」自分のメッセージを入れるようにしているそうです。例えば、箭内さん作成のCMで、52人のお笑い芸人が登場する男性化粧品「UNO」のCM。箭内さんは当時良く言われていた「ナンバーワンよりオンリーワン」という風潮がすごくいやで、「同じシリーズのCMをひと晩で54タイプ放送する」というギネス記録に挑戦することにより、「一番になりたいってもっと言おうよ」というメッセージを「UNO」のCMに込めたというんですね。

そうやって「勝手に」プライベートなメッセージを仕事に紛れ込ませることにより、自分の仕事だという意識も高まり、仕事の質も良くなるはずだという箭内さんの主張。これであれば、明日からでも実践できるかもって思わせるところが「サラリーマン合気道」の素晴らしいところです。

珠玉の言葉2:優先順位の低いものに時間をかける

最近は時間管理の重要性がよく言われてますよね。「優先順位をつけなさい!」とか、「もっと効率的に!」などなど。なんですが、将来のことを考えると、将来に繋がる仕事というのは、必ずしも大きな仕事とは限らず、小さい仕事で生まれた人間関係やアイデアから、将来を支える新規事業の種を見つけた、なんていうこともありますよね。そこでまた箭内語録であります。。

優先順位をつけないことで、仕事は有機的に結びつき、密度を増していく(「サラリーマン合気道」P100より)

箭内さんは、優先順位が一見最下位に見えるような仕事を、めちゃくちゃ一所懸命にやってるとおっしゃってます。その代表がフリーペーパー「月刊 風とロック」。今私の手元にタワーレコードで入手した月刊 風とロック 11月号がありますが、あのオノ・ヨーコとのロングインタビュー、たくさんのポートレイト写真他。。なかなか紙質も印刷も高レベルな感じ。確かに気合入ってます。定価0円。大赤字だそうです。。

なんですが、「月刊 風とロック」をきっかけにした出会いから、本業の広告に出演してもらったりとか、まさしく「有機的な結びつき」が生まれているそうです。

(最近さぼり気味で大変恐縮なのですが。。。)私もブログを頑張って書くことによって、色んな意味で有機的なつながりが出来ていることを痛感しておりまして、「優先順位低くても頑張る」ということの効用を実感している一人であります。

また、これもそのとおりだと思うんですが、優先順位が低いものを一生懸命やると、優先順位が高いものは必然的に一生懸命やらざるをえなくなるので、全ての仕事の質が並列になり、トータルでは質が向上するという主張です。そのとおりなんですが、これは結構大変そう。ちなみに箭内さんは毎日4時起床らしいです。。

珠玉の言葉3:自分を広告する

私はここが「サラリーマン合気道」の肝だと思っているんです。箭内さんは自分の個性やこだわりに縛られるのではなく、相手や環境に流されていくことにより、自分だけの力ではたどり着くことができない、もっと遠くまで行くことができるとおっしゃっているんですが、そしたら、それは「個性」「自分らしさ」と決別することを意味しているのかというと、そうではないと思うんですよね。そこで最後の箭内語録です。。

自分を装い、なりたい自分に整形することで、何度でも人生をやり直すことができる(「サラリーマン合気道 P164より」)

日本では「ありのまま」とか「さりげなさ」を素晴らしいとする風潮が強いですが、もしかしたら、「ありのまま」であることのほうが失礼であるかもしれない、というのが箭内さんの主張。つまり、ありのままではない、装った姿を世の中に積極的にアピールし、自分をもっと広告していいのではないかとおっしゃってます。

箭内さんはクリエイターとしての自分を広告するために、金髪にしたり、服装を派手にしたり、自分の見せ方をかなり意識して考えているそうです。確かにかなり派手。。そして、私は下記引用部分が箭内さんの真骨頂だと思っております。

「ありのまま」ではなく、自分で好きなようにキャラクターを作って存在できるから、世の中は面白いのです。服装や態度と言った見せ方一つで、ちょい不良風でも、真面目風でも、どんなキャラクターでも装うことができる。もし気に入らなくなったら、いつでもやめたり、変えればいいのです。何度でも自分を広告し直したり、作品化することができるということは、人生がいつでもやり直せるということを意味します。自分で自分を作り、何度でもデビューし、生まれ変わることができるのです。(「サラリーマン合気道」P163より)

つまり、「個性へのこだわりの呪縛を離れ、流されてみる」ということは、個性へのこだわりを捨てるということではなく、「今の自分の個性」に安住するのではなく、流されることによって常に個性を見つめ直し、「もっとよりよい個性」をゲットしょうじゃないの、ということだと私は今回の再読で再認識した次第です。

「今の個性に安住するのって、何かもったいなくない?」。箭内さんの声が聞こえてきそうですね。

「サラリーマン合気道」、ぜひ皆さんご一読下さい!

サラリーマン合気道―「流される」から遠くに行ける

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「ほぼ日」糸井重里のいい言葉に感動 〜10年前の自分に感謝する〜

ちょっと時間が経ってしまったのですが、ほぼ日刊イトイ新聞の「梅田望夫×岩田聡×糸井重里 適切な大きさの問題が生まれれば」全8回が終了しました(すいません。。大分前ですね。。)。「わかりやすくて深い言葉」に多く出会えるとても豊潤な対談であったのですが、その中でも私の中でとびきりに胸を打ち、考えさせられた言葉がありましたので、ご紹介したいと思います。

それは、第7回に語られている糸井重里さんの言葉、「10年前の自分に感謝する」。

言葉の意味をできるだけそのまま伝えたいので、「ほぼ日」から引用させて頂きます。糸井さんが10年前に「ほぼ日」を手探りでスタートさせたことについての一考。。。

糸井さん そのとき、社員と話してるうちにね、「10年前の自分に感謝する」って思ったんです。つまり、10年前の自分が、先のことを考えずに「よいしょ!」ってやってくれたおかげでいまの自分たちがあるわけですよ。で、いま自分たちは忙しくやってるつもりでいるけど、あのときのあの「よいしょ!」に比べたら、ずいぶん快適な、ぬるま湯にいると思うんです。でも、やっぱり、いまから10年後の自分にも、同じことを言ってもらいたいじゃないですか。「2008年の自分が先のことを考えて用意しておいてくれたおかげでいま、こうしていられるんだよ」って、笑いながら仲間と語り合いたいなと思ったら、ちょうどいいスモールビジネスを回し続けているわけにはいかないなと。はたしてそれがストレッチするというはっきりした形になるかどうか知りませんけど、せめて、必死でなにかをテストするようなことが、一回、一回、必要なんだろうなと。

岩田さん 糸井さんの10年前の「よいしょ!」で私が象徴的に憶えているのは、当時、糸井さんが「広告は終わったんだよ」ってはっきりおっしゃったことです。「だって、『いま売れてます』がいちばん効くコピーなんだから、この先の広告にはなにもないよ」って。そのころ、広告の世界の、いちばん中心にいた人がそんなふうにおっしゃったので、私は強烈に憶えているんです。

糸井さん ああ、そうか。たしかに、あのころああ断言できたというのは、思えば、けっこうな冒険ですね。
岩田さん ええ。だって10年以上前ですからね。いまはみんな共感できるかもしれませんけど、そんなこと、誰も言ってませんでしたから。
梅田さん コンフォートゾーンじゃないところへ自分から踏み出したんですね。

では私の場合はどうだろうか。。

「10年前の自分に感謝する」。この言葉に触れ、私は考えてみました。「果たして自分はどうだろうか」と。

私の10年前、1998年。これはまさしく暗黒の日々でした。。

就職氷河期を何とか乗り越えて潜り込んだ会社、しかしそこで待っていたのは昼夜を問わない壮絶な激務。。そんな中、後先考えずに始めた中小企業診断士の受験勉強。仕事の後の深夜ファミレスでの勉強、土日を返上しての予備校通い、そして何度受験しても不合格の連続。。合格通知が届くはずの日に届かなかったあの日、今でも鮮明に思い出すことができます。もう何度止めようかと思ったことか。。

当時そんなことを意識しているはずもないのですが、あの時私は「コンフォートゾーンじゃないところに踏み出そうとしていた」のかなと今では思えます。そして、2008年の私が1998年の私を振り返ると、「10年前の自分に感謝できる」と言ってもいいかもしれないなと。。その時は10年後どうなるかなんて何の展望もなく、ただ目の前にやってくる嵐のような様々な出来事をやっつけることに必死だっただけなんですけどね。。

そして今2008年。「10年後の2018年の私は、2008年の私に感謝することができるだろうかと」自問自答してみました。

正直言いますと、「10年前の自分に感謝できる」とは言えないかもしれないなと。。そして今私はまさしく「コンフォートゾーン」のど真ん中にいるんじゃないかとも思ったり。。

「10年前の自分に感謝する」という言葉が持つ可能性

「10年前の自分に感謝する」。これを逆に考えてみると、「(今辛くても)10年後の自分が感謝してくれるはず」と読み替えることも出来ると思うんですよね。今辛い日々を過ごしている人、そんな人がこの言葉の助けを借り、そして導かれ、少しずつ前を向いて進んでいく。こんなに素晴らしいことを引き起こす可能性を秘めた言葉だなと。

また、立ち止まって自分を振り返り、「10年後の私は今の私に感謝してくれるだろうか」と自問してみる、これは単なる振り返りでなく、将来を見据えたとき、今の自分が「正しい位置・場所にいるんだろうか」を検証する「リトマス試験紙」のような役割を担えるのではないかと思ったりしています。

自分のちっぽけな経験で恐縮ですが、この言葉の助けを借りながら1998年の私を振り返り、「今の私は1998年の私に感謝したい」と思えることに気づき、そして2018年の私を思い、「2018年の私は今の私を感謝しないかもしれない」という危機感に気づかせてくれています。

そして2008年の私は、「よいしょっ!」と動き出さないといけないなということも。。。

「10年前の自分に感謝する」。これ以外にも、溢れんばかりのメッセージがいっぱい詰まったたくさんの言葉に出会える素晴らしい対談です。是非皆さんもご一読頂ければと思います。

梅田望夫さん。岩田聡さん。糸井重里さん。有難うございました。


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ほぼ日 「梅田望夫×岩田聡×糸井重里」の今後が楽しみ

既に色んなところで話題になってます「ほぼ日刊イトイ新聞」の梅田望夫さん、岩田聡さん(任天堂社長)、糸井重里さんの対談。先週全8回中2回が終了しました。なんともいい空気に満たされた空間の中、「わかりやすくて深い」豊穣な言葉で満たされていて、とても心地よいです。

第1回「主体的に時間を使わない限り、人生はすぐに終わってしまう」
第2回「やることを誠実に小さくしていくと、奥行きが出て、豊かになっていく」

「三十歳から四十五を無自覚に過ごすな ~任天堂社長 岩田聡~」というのを以前書いてますのでよろしかったらどうぞ。

むかし私が高校生のころ、毎年年明けにNHKFMで「大瀧詠一×山下達郎×萩原健太(音楽評論家)」の新春放談というのがあって、こたつに入り、みかんを食べながら「最近どうよ」的な話をやるラジオ番組がありました。ゆるーい感じで進むんですが、各人がぼそっという言葉がなんとも豊潤なわけでありまして。


■「深い」もののバックには、膨大な時間を費やし積み上げた思考があり、
■「わかりやすい」もののバックには、これまた膨大な時間をかけその積み上げた思考からコアな部分のみを取り出した思考がある。
■そして言葉が結晶化し、「わかりやすくて深い」ものが生まれる。


梅田さん、岩田さん、糸井さんの対談を拝見しながら、高校時代に愛聴した「大瀧詠一×山下達郎×萩原健太の新春放談」を懐かしく思い出しながら、「わかりやすくて深いもの」について少し考えてみた次第です。

そんなことを考えながら読んでいると、対談の中でこんなやりとりが。2回目の「やることを誠実に小さくしていくと、奥行きが出てきて、豊かになっていく」という話の中で。。

岩田 だから、たとえば糸井さんがいい土鍋をつくる人を見つけてきて、「一度につくれるのは100個までです」っていって売るなんていうのは、マスのビジネスではあり得ない。
糸井 そうですね。ああ、典型的ですね。あと、お客さんに対してだけじゃなく、その、いい土鍋をつくっている人も、「その仕事をあきらめなくてよくなる」んですよ。そういうことは、少なくともわかるなぁ。やっぱり、技術やセンスを持っている人たちが、その力を活かせない社会というのは、豊かさを失っていくと思うんですよ。
梅田 やっぱり、その人固有のものがあるわけでしょう。個性というか、得意な分野というか。そういうものをみんながきちんと見つけて、それぞれに掘っていけば、そこに生じるパワーというのは、インターネットという道具と相性がいいですから、どんどんつながっていくと思うんです。

私たちが生きているこの時代、もっと自分の「好き」に素直になり、それを愚直にやり続けて自分らしい「わかりやすくて深いもの」を作ることにもっと貪欲になってもいい、いや、ならないと損するなとちょっと思った次第です。これが難しいんですけどね。

「わかりやすくて深いもの。」私の永遠のテーマであります。
今後の梅田望夫さん、岩田聡さん、糸井重里さんの対談の進展が待ち遠しいです。


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三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな ~漫画家 手塚治虫~

ちょっとご無沙汰しておりました「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな」。梅田望夫さんの著書「ウェブ時代をゆく」で下記の文章に大変感銘を受けたことをきっかけにスタートしております。

「三十歳から四十五歳」という難しくも大切な時期を、キャリアに自覚的に過ごすことが重要である。(P194)

今回ですが、今年生誕80年を迎え、今だに数多くの研究書が執筆され続ける漫画界のみならず昭和の巨人。手塚治虫

今回手塚治虫を取り上げた理由。それは2つあります。

一つは、手塚治虫は、「三十歳から四十五歳という大切な時期」に、自分のそれまでの生き様を否定されるほどの大きな挫折を味わい、しかし留まることなく前に進み続けることによりこれを克服したことを知り、書き留めておきたいと思ったから。

もう一つは、先日手塚プロダクションから、3年以内に「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」などの手塚作品全作品の全編をインターネット上で無料配信するという発表があり、これを機にもっと手塚治虫について知りたいと思ったからであります。

17歳で漫画界にデビュー、瞬く間にヒット作を連発する早熟の天才、手塚治虫。しかし手塚治虫が生きた「三十歳から四十五歳」は、手塚自身を精神障害に陥れるほどの極めて苦しい日々でした。いかにしてこと苦境を乗り越え、そして復活したのか。その足跡を追ってみたいと思います。


多感な手塚少年は9歳で「手塚治虫」に

手塚治虫(本名は治)は昭和3年(1928年)11年3日、大阪府豊中市生まれ。手塚少年は小さいころころからマンガが大好き、兄弟そろって4コマ漫画を描くような少年時代を過ごします。学校では最初はいじめられっこでしたが、手塚少年の漫画の才能は段々と校内で知り渡るようになり、段々と一目置かれる存在になっていきます。

また昆虫採集に夢中になり、真剣に昆虫学者になることを夢見たことも。手塚少年は友達の石原実君とともに、ガリ版の「世界科学体系共同制作文庫」なる昆虫本を作成、50部刷って、クラスのみんなに配布します。このとき弱冠9歳。。当時すでにペンネーム「手塚治虫」を名乗り始めます。その後、北野中学に進学した後も、「原色甲蟲圖譜」「昆蟲つれづれ草」など続々と昆虫の私製本を作成していきます。

また同時に、手塚作マンガに大きな影響を与えるウォルト・ディズニーのアニメーション、そして宝塚歌劇にも「溺れる様に」のめり込んでいきます。

早熟な天才は漫画家と医学生のかけもち

手塚少年は16歳で大阪帝国大学付属医学専門部に入学。戦地に派遣される軍医の卵として勉強を重ねる中、大阪での大空襲、そして終戦を経験。この原体験が手塚マンガに根底に流れる思想「命の尊さ」の源流となります。

戦時中からマンガ雑誌に投稿していた手塚少年に、ついにその時がきます。毎日新聞社の子供向け新聞「小国民新聞(のちの毎日小学生新聞)」に「マーチャンの日記帳」の連載が決定、マンガ家デビューを果たします。この連載が3か月ほど続き、自身をつけた手塚はプロの漫画家として生きていくことを決心します。このとき、まだ17歳。。

そしてその翌年、手塚が参加していた「関西マンガクラブ」で酒井七馬という男と出会います。酒井が原作・構成、手塚治虫が作画を担当した「新宝島」が40万部を超える大ヒット。この作品は後のマンガ文化隆盛のきっかけとなる作品として語り継がれています。

この「新宝島」のヒットを皮切りに、手塚治虫の才能が爆発します。当時次々と単行本を描き下ろし、18歳から21歳の4年あまりの間に書き上げた作品はなんと34作品36冊。多い時には月に1冊というペース。。この執筆量の多さが手塚治虫の成長の原動力となります。量が質を生んでいくんですね。

そうそう。皆さん忘れてませんか?手塚治虫18歳。まだ医大生です。。信じられません。。

鉄腕アトムのヒット、そしてストーリー漫画の旗手に

漫画家と医大生の二足の草鞋で爆走する手塚は1951年、しっかりと大阪大学付属医学専門部を卒業。そのまま大阪附属病院でインターン生活に入ります。この時に生まれた作品「アトム大使」。これが手塚治虫の人生を大きく左右する一作となります。

アトム大使」の連載が始まったものの、話が複雑すぎていまひとつ人気が出ない状態が続きます。そんな中、編集者から、脇役であったロボット「アトム」というロボットに、喜びや怒り、悲しみなど人間的な感情を持たせ、「アトム大使」から「鉄腕アトム」へとリニューアルしたらどうかとアドバイスを受けます。このアドバイスに対し、手塚治虫は「わかりました」のひとことで応じます。このとき、22歳。

その後「鉄腕アトム」は大ヒット。1981年には書籍化された鉄腕アトムが累計1億冊を超えたと言われております。今累計何冊までいってるんでしょうか。。

そして1952年、23歳でしっかりと医師国家試験合格。そして東京に進出し、翌年にはあの伝説の「トキワ荘」に引っ越します。

このとき手塚は、「鉄腕アトム」の大ヒットにより、長者番付で画家の部2位に。1位はあの横山大観。そんな若きヒーローが4畳半しかない、階段ギシギシのオンボロアパートに住んでいたという事実。当時の新聞記者は「こんなところに百万長者がいるのか」とびっくり仰天したというエピソードが残っています。。

手塚治虫はその後もその尽きることのない創作意欲をフルに発揮し、尋常じゃない仕事量をこなし、ストレスと疲労の極限に達しながらも良質な作品を生み続けます。

手塚治虫を襲った3つの「壁」

順風満帆に見える手塚治虫の漫画家人生。そんな手塚を試すかのように、神は手塚に3つの「壁」を与えたます。

一つ目は「悪書追放運動」。1954~55年、子供マンガの通俗性への非難の声が高まり、手塚自身もPTAの集まりに編集者とともに参考人として呼び出され、糾弾されるという経験をします。「子供に命の尊さを伝えたい」と心より思い続けてきた手塚の作品が「悪書」として糾弾される事実。手塚にとってとてもショックな出来事でありました。

二つ目は「劇画の台頭」。悪書追放運動が落ち着いた1956年、よりリアルな画風を武器に社会の闇をストレートに描く「劇画」が人気を博すようになります。子供向けのやわらかいタッチの手塚マンガは「劇画」の対極に位置する形に。。そして読者からは「手塚はもう古い」「手塚は終わった」との辛辣な批判を受けることに。手塚は当時の自分をこのように書き記しています。

劇画が貸本屋に溢れ出し、ぼくの家の助手までが二十冊も三十冊も劇画を借りてくるようになったとあって、ぼくも心中おだやかでない。ついにぼくはノイローゼの極みに達し、ある日、二階から階段を転げ落ちた。マンネリだ、マンネリだと読者の手紙が殺到し、なにを書いても評判が悪く、しかも助手は劇画に熱中する。もう世の中はお終いと思って、千葉医大の精神病院に精神鑑定をしてもらいに出かけた。(「ぼくはマンガ家」毎日新聞社より)

しかし手塚はもがき苦しみながらも、前に進むことを止めませんでした。

手塚は劇画を貪欲に取り入れた作品を書き続けながら、1961年には奈良県立医科大学にて医学博士号を取得。そして同年アニメーション作製を目的とした「手塚治虫プロダクション動画部(後の虫プロダクション)」を設立。念願であったアニメーション作製に進出します。このとき32歳。

そして国産初のテレビアニメ「鉄腕アトム」を世に送り出し、平均視聴率が30%を超える大ヒットに。その後「鉄腕アトム」はイギリス、フランス、西ドイツ、オーストラリア、台湾、香港、フィリピンなど世界各国で放映されるようになります。

劇画に押され「自己脱皮」を迫られた手塚治虫。ようやくその劇画調の作品が実を結び始め、下記のグラフに見られるように、一時期落ち込んだ新作発表数を序々に回復させていきます。

完全復活か、手塚治虫。しかしここで3つ目の「壁」が手塚を襲うのです。。

手塚が満を持して出版した大人向け本格雑誌「COM」。これが売れず、赤字が膨らむ結果に。また虫プロダクションは総勢500人を超える大所帯に。この給料をねん出するためにアニメを作り、そしてそれが赤字を生むという自転車操業状態に。。

そして昭和48年(1973年)、書籍関係を統括する虫プロ商事・虫プロダクションともに倒産。。10億円の私財を投じていた手塚は多額の債務を背負いこむことに。。この時、手塚は「マンガは女房、アニメーションは手のかかる恋人」という言葉を残しております。このとき44歳。

それでも止まらない、止まれない手塚治虫

それでも手塚治虫はその尽きることのない創作意欲に突き動かされ、前に進もうとします。

倒産で債務を背負った手塚治虫。「もうこれが最後」と自ら出版社に企画を持ち込みます。多くの出版社が提案を断る中、秋田書店が手塚に、

  • 毎回読み切り
  • 劇画のような画
  • 人気が出なければ4回で打ち切り

この3つの厳しい条件をつきつけます。手塚はこの条件を了承。そして第1回は目次にすら掲載されない状態でこの作品はスタートします。

その作品の名は「ブラックジャック」。

手塚治虫は自らの漫画家としての「最後の死に場」に自分の原点である「医療」の場を選択。虫プロダクション倒産と同じ1973年11月、手塚は「ブラックジャック」の連載をスタートさせます。

数回の読み切りで終わるはずの「ブラックジャック」は想定外の人気マンガ。その後5年にわたる長期連載の道を歩むこととなるのです。

ブラックジャック」で完全復活を果たした手塚治虫は、その後全400巻という前代未聞の個人作品集「手塚治虫漫画全集」をスタート。しかも手塚は「生前に出た本は目の前の読者に向けて出す」という手塚の意志の元、常に書き換えを行っていたといいます。また歴史大作にも進出。「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」が好評を博し、優れた歴史作品を次々と生み出していきます。このとき、54歳。

しかし長年の肉体的・精神的酷使は確実に手塚の身体を確実に蝕んでいました。体の不調を訴えながらも、周囲の忠告に反し入院せずマンガを描き続けていた手塚は病に倒れ、緊急入院。胃がんと診断されます。数回の手術が行われましたが、回復は叶わず、1989年2月9日、帰らぬ人となります。享年60歳。

病院に一式道具を持ち込み、漫画を描き続けていた手塚治虫。意識が朦朧とする中で手塚が奥様に残した最後の言葉、それは「頼むから、頼むから仕事をさせてくれ」でした。
そしてこの時、埼玉県新座市に手塚念願の漫画とアニメーションの総合製作スタジオが完成。手塚の帰りを待っているところでありました。。

手塚治虫のメッセージ~「アーチストになるな」~

手塚治虫の壮絶な生き様に私たちは何を学ぶことができるのか。手塚は劇画台頭により「自己脱皮」を求められた苦悩の時代に、この言葉を述べています。

アーチストになるな、アルチザン(職人)になれ(「ミネルヴァ日本評伝選 手塚治虫」P3)

では、「アーチスト」と「アルチザン」の違いは何なのか。

手塚治虫は、漫画を通じて「将来ある子供たちに、命の尊さを伝えるんだ」という明確な目的を持っていました。手塚がマンガを芸術視していた「アーチスト時代」。それは自分のマンガを「絶対視」し、自らの目的を達成する手段は絶対的存在である自分なんだと強く信じていた時代だと思います。

その手塚を吹き飛ばすような「劇画」という暴風雨。この暴風雨の中、手塚は冷徹に自分がマンガを書く目的は何なのかを問い続け、そして「自分はこれでいいのか」と自分を客観視する術を覚えます。そして変わることへの恐怖を振り払い、劇画という得体の知れないものを併せ呑み、自らを「転向」していったのです。

つまり、「アーチスト」とは自分を絶えず「絶対視」する。「アルチザン」とは絶えず自分を「客観視」している存在ではないかと。

  • 自分の中にブレない軸となる「目的」を持ち続けながら、
  • 自分を絶えず「客観視」し続け、
  • 目的を達成するためには「自分を変える」ことを恐れない。

これが手塚治虫の生き様から学ぶ「アルチザン」ではないかと私は思いました。今回の私の学びのポイントであります。

是非下記作品で手塚治虫本当の姿に触れてみて頂ければと思います。何かを感じて頂けると思います。

手塚治虫―アーチストになるな (ミネルヴァ日本評伝選)

手塚治虫―アーチストになるな (ミネルヴァ日本評伝選)

(Youtube)手塚治虫の生涯 Part1
(Youtube)手塚治虫の生涯 Part2
(Youtube)手塚治虫の生涯 Part3
(Youtube)手塚治虫の生涯 Part4


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Googleのストックオプション付きシェフの「いい仕事」に感動

Googleと言えば、社員に対する福利厚生が最高、世界各国の健康的な良質の食事・ドリンクが無料で用意されていることは有名なお話ですよね世界中の技術者が憧れる、Google本社の豪華ランチを食べてみた!!(確かに美味しそう。。)

今回取り上げるのは、腹ぺこなGoogler(Googleで働く人たちのこと)たちの空腹を満たしながら、それだけではなく料理を通じてGoogleの企業文化にまで大きな影響を与えてしまった、世界初のストップオプション付き上級シェフ、チャーリー・エアーズ(Charlie Ayers)。彼のことを知り、そのいい仕事に大変感銘を受けましたので、ちょっと書いてみたいと思います。


チャーリー・エアーズがGoogleのシェフになるまで

チャーリーはニュージャージーのHilton hotelで料理人としてのキャリアをスタート、時には料理学校の講師を務めたりしながら、米国ロードアイランド州やボストン州の有名店で腕を磨いておりました。常に新しい場所、新しい味を知りたいという強い願いを持ち、また料理以外でも音楽など、いろいろな新しい世界に自分から飛び込むことを好み、同じ場所に安住の地を求めるような人間ではありませんでした。

そんなチャーリーに転機が訪れます。チャーリーがカリフォルニアを訪れた時、米国で熱狂的な追っかけが有名なロックバンドGrateful Deadのお抱えシェフであったChez Rayと知り合い、そしていつしかGrateful Deadとそのツアークルーのために料理をふるまうことになったのです。これが後のGoogleとの出会いのきっかけとなります。

その後、チャーリーはGrateful Deadと離れ、自分の料理を楽しんでくれないお金持ち一家のお抱え料理人として、あまり気乗りしない日々を過ごしてました。そんなときにどこで聞きつけたのか(こういうところがGoogleのすごいところだと思いますね)、Google共同創業者のセルゲイ・ブリンが「是非Googleの専属シェフとして働いてほしい」と頼み込みます。しかしそのころのGoogleは設立1年も満たない社員12,3名の小さな会社。。「お前たちの会社にはキッチンだってないんだろう」といって、チャーリーは断ってしまいます。。

そうして、継続して気乗りしない日々を過ごしていたチャーリー。ある時、そんなチャーリーの目の前にGoogleのシェフを募集する求人広告が現れます。このときGoogleの社員数は45人、本社は現在のマウンテンビューに移転、この募集に応募してきた25人のシェフに実技試験を行い、全員不合格にした後でした(Googleのこだわりも半端じゃないですね。。)。改めてGoogleの実態を自分の目で確認したいと思ったチャーリーはマウンテンビューを訪れセルゲイと再会。セルゲイの熱意に負け、Googleのために精一杯自分の腕をふるうことを決意、Googleの56番目の社員として入社します。なぜチャーリーがGooglerとなる決意をしたか。その時のチャーリーの言葉が印象的です。

そこにはエネルギーが感じられた。みんながエネルギーを持っていたんだ。誰もが集中し、熱中していて、みんなが一つの目標に向かっていた。この会社を成功させよう、という目標だった。それは『自分を見てほしい』ではなくて、『自分たちがやったことを見てほしい』という姿勢だった。(「Google誕生 ガレージから生まれたサーチ・モンスター」P304)

チャーリー・エアーズがGoogleでやったこと

Googleの一員となったチャーリー。しかしGooglerはチャーリーにハンバーガーやホットドッグ、ブリトーなどのジャンクフードを要求します。そんなGooglerに対し、「私はそんなものを作るために雇われたのではない。もっと別なものを、有機栽培された食材を使った料理を提供するために私はここにいるのだ」と一喝。その後もチャーリーはテクノロジーおたく達に有機野菜の素晴らしさを語り続け、料理という武器を使い、Googleに小さな変化を仕掛け始めました。

チャーリーがGooglerの仲間入りをして6か月、のべ数千回の食事づくりに疲労困憊のチャーリーでしたが、Googlerのエネルギーに勇気づけられ、魂と愛情にこもった料理を提供し続けます。そして「Googleは社員に最後の一口まで楽しめる素晴らしい食事を提供する会社」として有名となり、シリコンバレーではGoogleの食堂がその辺のどのレストランよりもおいしいとの評判を獲得。当然Googlerの圧倒的な支持を得て、Googleの食堂は「charie’s Place」と愛情をこめて呼ばれるようになりました。

そして「以前Grateful Deadのシェフをしていた人が、最高にホットな会社で最高にグルメな料理を振舞っている」と、チャーリーの噂はどんどん広まり、Googleが優秀な人材を獲得し、そして繋ぎとめる重要なファクターとなったのです。

もう一つチャーリーらしいエピソードを。Googleは2004年8月19日にNasdaqに上場しますが、そのお祝いパーティーでのこと。上場のお祝いと言えば、一般的にはシャンペンを用意し、コルクをポンと開け、高級料理に舌鼓を打ちながら会社の未来を語りあうのが通常。しかしチャーリーは違いました。チャーリーは 風味豊かなアイスクリームで有名なベン・アンド・ジェリースから取り寄せた、一日中食べ放題のスペシャル・アイスクリーム・バーを用意。Googlerは一日中アイスクリームを何ガロンも平らげて、Googleの上場をみんなでお祝いしたのであります。。

チャーリー・エアーズとGoogleの別れ

チャーリーが料理を通じてGoogleに提供してきたものの大きさにGooglerのみならず、シリコンバレーのみんなが気付き、そして称賛され、尊敬のまなざしで見られるようになり、その存在が神格化されるまでになったチャーリー。ですが、チャーリーはやはり一箇所に安住の地を求めるような人ではなかったんですね。。

チャーリーはGoogle株式公開の数ヶ月後、カリフォルニアに自分のお店を出すという難しい決断を下します。Googlerに料理だけでなく、エネルギー・情熱・熱狂・楽しさ、もっといっぱいのものを届け続けた5年半。セルゲイ・ブリンラリー・ペイジの創業者二人はチャーリーとの別れを本当に残念がっていたと言います。

そしてGoogleで定期的に開催される「花の金曜日」のお祭りのこと。CEOのエリック・シュミットが今日のお祭りが最後の参加となるチャーリーをステージに上げます。そしてチャーリーとGooglerのために、チャーリーの顔がプリントされた5,000枚のTシャツを用意。Googlerがステージに押し寄せ、チャーリーは何時間もかけてTシャツ一枚一枚にサインをし、涙を流しながらチャーリーを抱きしめ、写真を取り、スタンディング・オベーションでチャーリーの栄光をたたえ、感謝し、Googler全員がチャーリーとの別れを惜しんだのです。

チャーリーが自ら作り上げたGoogleの文化に抱かれ、そしてそのGoogleを旅立ち、次の新しい挑戦に向かった瞬間でした。

現在のチャーリー・エアーズは

現在チャーリーはスタンフォード大学の近くに住居を構え、レストランの経営を行いながら、Googleで培った「料理を通じてよりよい企業文化を作る」知見を活かしたコンサルティング活動や、料理本の出版、料理の世界を超えた非営利団体の顧問を務めるなど、幅広い世界で活躍中です。

チャーリー・エアーズのHP
チャーリーが2008年にGoogleを訪れ、彼の書籍「Food 2.0」について語った際のビデオ

「いい仕事」とは何か。これを説明することはとても難しいのですが、チャーリーが実際にやった仕事に触れると、そのエッセンスが垣間見ることができるような気がします。今回ご紹介できなかった楽しく、そして素晴らしいエピソードもたくさんありますので、是非下記書籍をご一読いただければと思います。

私もいつかチャーリーのような、人を幸せに、ハッピーにする仕事をしてみたいなと思っています。

Google誕生 ?ガレージで生まれたサーチ・モンスター

Google誕生 ?ガレージで生まれたサーチ・モンスター

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自分の仕事を作る〜ブック・ディレクター幅允孝(情熱大陸より)〜

先日10月19日(日)の情熱大陸を御覧になられましたでしょうか。私にとっての「情熱大陸」は私の「パーソナルカミオカンデ」に組み込まれており(「パーソナルカミオカンデ」については私のエントリー「パーソナル・カミオカンデをデザインする」「私のパーソナル・カミオカンデをご紹介します」をご覧下さい。)毎回楽しみに見ておりますが、10月19日(日)の「人」、ブック・ディレクター幅允孝さんのお話に非常に思うところがあったので、少し書いてみたいと思います。


ブック・ディレクター 幅允孝とは

選書家、ブックディレクター、編集者、執筆家。有限会社BACH(バッハ)代表。
BACH(バッハ)主宰。慶應義塾大学法学部卒業。青山ブックセンター六本木店、建築・デザイン書のバイヤーを経て、(株)ジェイ・アイ入社、書籍の編集二十時。その後独立し、2005年10月に選書集団・BACH(バッハ)を設立。「Tsutaya Tokyo Roppongi」の本棚のプロデュースで脚光を浴び、その後本に関わるあらゆる分野で活躍。社名は自分の名前に由来する。選書、編集、執筆、企画、ディストリビューションなど、本をツールに幅広い分野で活動している。(Wikipediaより、若干加筆修正)

簡単に言うと、「本に関することは何でも手がける」という感じでしょうか。番組ではいろんな幅さんのお仕事が紹介されてましたが、一番「新しい」と思ったのは、「本棚をつくる」お仕事。。。

一番わかりやすいのは書店の本棚・平台を幅さんがプロヂュースするかたち。「SHIBUYA PUBLISHING&BOOK SELLERS」という書店の本棚を幅さんが手がけ、なんと客単価は一般書店の3倍だとか。。。

幅さんの「本棚」は書店にはとどまりません。例えば大阪の「千里リハビリテーション病院」。リハビリ専門の病院ですが、この患者さんが本を通じ、手を動かすなどの「身体的なリハビリ」と、心を潤す「精神的なリハビリ」に寄与する本1,200冊を幅さんがセレクト。幅さんの愛に満ちた本たちが、懸命にリハビリに頑張る患者さんを支えていました。ちなみにこの病院をプロデュースしたのは、今最も輝いているクリエイターの一人、佐藤可士和さんですね。

また、それ以外にも、革新的な経営手法で知られるスルガ銀行東京ミッドタウン支店の本棚、広島の新しく出来る結婚式場の本棚などなど。結婚式場では、世界各国の「愛」に関する本たちの中で、幅さんの一押しがあのドラえもんの「のび太結婚前夜」。新婚さんが肩を寄せ合い、「のび太」が「しずかちゃん」と結婚するまでの苦しく切ない道のりを一緒に読む。そんな空間をプロデュースするのが幅允孝さんの「新しい仕事」であります。

幅允孝を見て、箭内道彦の「クリエイティブ合気道」を思い出す

幅さんが代表を務められている会社「BACH」の業務内容。これはとても新しくて、One and Only。BACHのホームページには下記のように書かれています。

1つだけはっきりしておきたいのは、私たちが本という古くさいなどと言われるメディアを扱うのも、全て新しいものをつくるためです。
必要なのは明日のための過去であって、懐かしむためのそれではありません。私たちが本という軸足をしっかり踏みしめつつ、イベントの企画や家具の制作や広告のディレクションなど、本屋らしからぬピボットターンをもう片足で試みるのは、新しいものを生み出したいというBACHの初期衝動からきています。
本という有用な情報ツールを扱う者として、その仕事の領域をどこまでも発明し、広げていきたいのです。

このようなOne and Onlyな仕事をどのように幅さんは作り上げていったか。私はこれを知りたいと思いながらテレビを見ていたのですが、幅さんは「情熱大陸」のディレクターとのやり取りでこんなことをおっしゃってました。

<ディレクター>幅さんにとって、本棚を作るということは、「自己表現」なのでしょうか。
<幅さん>いや。自己表現ではないですね。僕は自分を媒介者だと思ってます。「こんなおもしろい人がいるんだよ」とか、「こんな素敵な本があるんだよ」ということを皆さんにご紹介したいという思いでやっているだけなんですよ。
<ディレクター>自己表現ではないですか???
<幅さん>そもそも、僕の中に表現できる自己なんて無いですよ。。
<ディレクター>。。。。(となっていたと想像。。。)

このやり取りを聞いていて私が思い出したのが、広告プランナーで広告会社「風とロック」代表・箭内道彦さんの名言である「クリエイティブ合気道。」

「クリエイティブ合気道」とは。。。
攻撃してきた相手の力を利用し、関節技、押さえ技等で相手のバランスを崩し攻撃をかわすという合気道の特徴をクリエイティブな世界に応用した箭内道彦氏の独自理論。
相手の要求に対し、相手の力を利用して相手に投げ返す、また制約があればその制約を逆にいかすなど、自分ひとりではなく相手・状況の力を最大限に生かして何かを生み出そうとする手法。(私の解釈)

また、箭内さんの最新著書であります「サラリーマン合気道」の「はじめに」ではこんなことが書かれております。

自分ひとりで思いつくことなんてあまりにも小さい。目の前の相手と向き合ってそこから生み出せばいい。そのことに気がついて、僕は少し楽になりました。流されるからこそ遠くに行けるのだと。

サラリーマン合気道―「流される」から遠くに行ける

サラリーマン合気道―「流される」から遠くに行ける

幅さんは「誰かに依頼されて本棚を作る」という今までにない「新しい仕事」を作り上げたのですが、幅さんはどうやってこれを作り出したのか。テレビを見続ける中で私は「幅さんはこの仕事を作ったんだろうか」という疑問を持ってしまったんです。いや、そうじゃないんじゃないかと。

そこで思い出したんですね。「クリエイティブ合気道」を。

幅さんは大好きな「本」という名の「川」を流れに任せて流れ流されて、色々な出会い、別れを経て、その中で「新しい仕事」が生まれて言ったんじゃないかと。自分ひとりの力で何かを「生み出そう」とせず、流れに任せて流されていったからこそ、自分ひとりでは行けない場所まで行けて、そして幅さんだけの「新しい仕事」が生まれていったのではないだろうかと。

幅さんがいいこと言ってました。「本は僕をいろんなところへ運んでくれる」と。

自分探し、自己表現の呪縛を解かれ、どんどん流れ流されていった結果生まれたものって最高にOne and Onlyなものになってるんじゃないでしょうか。そしてそうやって生まれたものは竹のようにとてもしなやかで、強くて、何があっても折れない。幅さんの生き様を見て、そんなことを思いました。

とてつもなく大きなリスクを背負ってるんだと思うんですが、素敵な生き様だと強く尊敬しました。

そんな幅允孝さん、番組の最後で幅さんが選んでいた「月曜日から一週間がんばっていくための3冊」は最高にOne and Onlyな三冊でした。

スヌーピーたちの人生案内

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就職しないで生きるには

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そして。。。

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