サンフランシスコに行ってきました。あくまで仕事で。。

先週一週間、仕事でサンフランシスコに行って参りました。訪れたのはサンフランシスコから南下し、途中シリコンバレーがあるサンノゼを通過、2時間ほどで到着するモントレーという町。Carmel Beachなどのきれいな海岸、Whale Watchingも可能なFisherman’s Wharfなどとても楽しい観光地なのですが、私の仕事のある半導体関連産業の大規模なカンファレンスが毎年このモントレーで開催されます。

シリコンバレーからは少し離れているのですが、参加する企業、人たちは普段シリコンバレーで働いている人たちが多く、会場全体がシリコンバレーの雰囲気でした。

とにかく天気と空気が良いんですよ!雲ひとつない青空なんですが、その青さが筆舌に尽くしがたく感動的。澄んだ青というのかな、日本ではなかなかお目にかかれない素晴らしい青空です。そんな中ですので、カンファレンスの出席者は「まじめなビジネスマン・エンジニア」もそこそこに、半分は観光気分(すいません!)といった和やかな雰囲気。

そういえば、梅田望夫さんの著書「シリコンバレー精神」の冒頭に、シリコンバレーについてこんな記述がありましたね。

夏はかなり暑い日が続くことがあるが3月頃から11月頃まで、心地の良い快晴の日が続く。雲のない空の青は濃く、雨はほとんど降らずジメジメしない。(中略)ハイテク・ベンチャー企業の集積地シリコンバレー企業の気候条件が最高で、自然環境にも恵まれ、できれば仕事などしないで過ごしたいなぁ、と心から思うような場所であることは、案外知られていない。(P20)

もう、この通りの場所です。そりゃー梅田さんもシリコンバレーから帰って来ないわけだわとすごく納得した次第であります。


私が感じたシリコンバレー流の「働き方」

このような最高の気候条件ですので、人の気持ちにも大きく影響を与え、また「働き方」にも大きな影響を与えているように感じました。また例え遠く離れた日本であったとしても、そこから学べることはとても大切なことでではないかなと思い、ちょっと書いてみたいと思います。

圧倒的な「楽しむ精神」に金融危機は関係無し

プレゼンテーションでは関西人ばりのギャクを織り交ぜ(残念ながらどこが面白いのか英語がわからんのです。。)、そしてカンファレンス後のポスターセッションではみんながビールやワインを片手に本気で見てるんか見てないんかようわからんような状態、そして最終日のパーティーでは女性陣はここぞとばかりの背中パックリのドレスアップ!、そしてアトラクションには初めてお目にかかる「ソムリエ漫談おじさん」のエンドレスの漫談大会!

先週一週間は金融危機を始め世界各国で大変なことが立て続けに起こっておりましたが、モントレーではそんなことお構いなしに祭りは夜まで続くのでした〜。


シリコンバレーには「偉ぶった親父」はあまりいない

会場にはシリコンバレーの有名企業のお偉い方も沢山来られます。日本だったら、そのような方は黒塗りの車でお付きの人とともにやってきて、自分の出番を終えたら偉ぶった態度でさっさと帰っていくという感じだと思うのですが、ここではそんな光景はほとんど見られません。私たちみたいなペーペーにでも「Welcome to Monterey!」なんて笑顔で言ってくれるし、素晴らしいプレゼンテーションに対してはそのプレゼンターへの賞賛を惜しみません。

なぜこうトップ・エグゼクティブがフランクなのか。ある組織のトップであることと開発担当者の違い、日本だとそれはまさしく「地位の違い」であり、上下関係が大前提になりがち。ですがシリコンバレーではそれは単なる「役割の違い」であり「地位の違い」を意味するものではない、この意識をトップ・エグゼクティブが強烈に持っているような気がしました。

しかし、単なる「謙虚」ということとは違うんですよね。激烈な競争社会があり、明日の雇用が保障されないシリコンバレーですので、その「役割」に対するコミットメントの強さは強烈なものがあります。ではこのような思考の原点は何なのか。以前書評を書きました酒井穣さんの「あたらしい戦略の教科書」にある下記の言葉を思い出しました。

ビジネスの複雑さがものすごい勢いで増している現代社会においては、現場の専門知識が乏しいトップが、戦略のすべてを管理することにリスクが極端に高まっています。(中略)そうした意味で、現代における戦略とは、現場に近い各分野の専門家が、ボトムアップ的な方法で、その立案以前から積極的に関わっていくべきものになったのです。(P5)

シリコンバレーに生きるトップ・エグゼクティブは、激烈な技術進化の波に揉まれながら、このリスクを強烈に意識しているのかもしれませんね。

むしろ日本より「家族意識」が強いのではないか

よく日本企業の良いところとして「家族主義」が上げられますが、そしたら「アメリカの企業って家族主義じゃない」と言うとそんなことはなく、私は特にシリコンバレーの企業は「家族主義的な面も大いにあるんじゃないの」との印象を強く持っています。

確かにウォール街の金融関連企業には「家族主義的要素」は無いかもしれないですが、シリコンバレーの人たちの一緒に仕事するメンバーへの愛情はとても深いものがあると以前より強く感じています。

また、今回のような業界人があつまるカンファレンスのような場所では、チーム・会社を超えて、同じ産業で切磋琢磨する人たちがある種「家族的」な思いやりや愛情を持ちながら、業界全体を盛り上げていこうという「やさしい風」が吹いている感じがします。なので、例え競合相手であったとしても、大きな問題がないのであれば、情報を提供しあったりしているんですよね。

なのですが、私が不思議に思うのは、やはりシリコンバレーでの激烈なサバイバル競争は変わらないわけですよ。明日の自分の仕事が保障されているわけではない。そんな中でもこんなに大らかな気持ちで仕事が出来る原動力は何なのか。まだ「これだ!」と言えるわけではないのですが、梅田望夫さんの「シリコンバレー精神」での下記の記述はシリコンバレーの人たちの「心のよりどころ」なのかもしれませんね。

ここシリコンバレーで色々な人たちと出会い、色々な人たちの考え方に触れ、色々な人たちの生きざまを見つめ、最近私の中に芽生えてきたのは、彼らの「個人としてリスクテイクする生き方」への憧憬というべき感覚です。またその文脈で「変化していく自分」を楽しもうとする気分も生まれつつあります。今年は自分の身の上にどんなことが起こるのだろう、来年の今ごろは何をしているのだろう。そんなことまでひっくるめてすべてを「前向きに、明るく、真剣に、楽しんでしまおう」という気分は、新しい感覚の萌芽と言えます。(P212-213)

遠く離れた日本ですがこのような気持ちを少しでも持って、色んなことを楽しめたらな、そして来年もまた行けるといいなと願いながら、あの澄んだ青い空を思い出しております。


いかがでしたか?もし「おもろい!」と思われたらクリックをお願いします!


にほんブログ村 経営ブログへ

任天堂 宮本茂さんのインタビューがおもろいです。

先日のエントリー三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな ~任天堂社長 岩田聡氏~任天堂 売上2兆円突破を記念し、数字を色々と集めてみましたを色んなブログ、ニュースサイトなどで取り上げて頂きました。Mixiで取り上げて下さった方もおられたのですが、ある方が私のエントリーとともに、現在任天堂の専務取締役で「マリオ」「セルダ」の生みの親として超有名な宮本茂さんのインタビューを紹介されていました。

宮本茂(みやもとしげる任天堂専務取締役 情報開発本部長 
ご存じ『マリオ』『ゼルダ』をはじめとした数々の傑作を生み出してきたゲームクリエイター。1952年11月16日京都府園部町生まれ、1977年金沢美術工芸大卒、任天堂入社(配属は企画部)。ゲーム関連にとどまらない数々の賞を受賞、2006年にはフランス政府芸術文化勲章シュバリエ賞 受賞。
1本のゲームソフト開発に注力する立場から、任天堂関連ソフトを全体的に監修する立場が強くなった現在、駄目出しの結果「面白くない」と強権を発動してほぼ白紙に戻す「ちゃぶ台返し」(本人命名、英:return tea table)が有名。(ニンドリドットコム、Wikipediaより)

宮本茂 時雨殿でWiiを語る(前編)
宮本茂 時雨殿でWiiを語る(後編)
宮本さんに尋ねる「あのソフトはどうなった?」
宮本さんに聞く○×クエスチョン
宮本さんと一問一答

DS、Wiiの開発秘話を中心に、宮本さんの岩田聡評など、多彩な内容で読み物としてかなり楽しく読めます。

宮本さんの言葉で特に私に響いたのは「(何かを成し遂げるためには)コツコツと正しいと思うことをやる以外にない」という言葉。

ここで思うのは、「正しいこと」と「正しいと思うこと」の違い。世間一般で正しいと考えられていることではなく、「何が自分にとって正しいことなのか」を考え続けて、見つけて、それをコツコツとやる。自分の頭で考える。考え続ける。

このインタビューの後半で、宮本さんは若者へのメッセージとして「自分の頭で考えろ」「自分らしいモノをつくろうと思え」とおっしゃってます。

このインタビューに触れ、「自分の頭で考え抜く」ことの重要性を再認識した次第です。難しいんですが、続けないといけないですね。自分の頭で考えること。

ご紹介くださった方に感謝申し上げます。ありがとうございました。

いかがでしたか?もし「おもろい!」と思われたらクリックをお願いします!


にほんブログ村 経営ブログへ

梅田望夫さんにお会いすることができました!

先日私、なんと私梅田望夫さんと直接お会いしお話をお伺いしました!

このブログを書き始めて6ヶ月経ちましたが、いつも梅田さんに読んで頂いております。そんな中6月頃に梅田さんからメールを頂き、「是非お会いしたい」と私が無理をお願いしまし、今回実現しました!

都内某ホテルのロビーで待ち合わせ、そのままロビーラウンジでコーヒーを頂きながらの1時間でした。もう感動です。。

梅田さんとお話したこと。。

私は、梅田さんはとても自分に厳しいストイックな人だから、私にもかなり厳しいことをばんばんおっしゃるタイプかなと思い、お会いするまでかなり緊張していたのですが、お会いして全く印象が違い、とてもびっくり。物腰柔らかく、だけど自分の意思をこめてお話なさる方でした。

私は「しなやか」という言葉が大好きで(梅田望夫著 「生きるための水が湧くような思考」の書評で「しなやかさ」について書いてますので、是非ご一読を)、梅田さんはまさしく「しなやか」な人。自分を貫く一本の芯が通っていて、これを軸にやさしさと厳しさを行ったり来たり。そんな「しなやかさ」を感じた1時間でした。

梅田さんとは、コンサルティングについてのお話を中心に色々とお話をしました。大学を卒業しコンサルティング会社に入られ、その中で修行を重ね(3年とおっしゃってましたね)、シリコンバレーに渡り、ビジネスを拡大され、そして独立(なんと36歳)。この間約10年なんですよ。もう私の10年と比較してなんと違うことか。。

梅田さんはご自身の経歴を著書でお書きですので、おおよそは知っていたのですが、その過程での裏話を色々とお伺いしました。。いやーこれがすごいし、面白い!

そしてしっかり「ウェブ時代をゆく」にサインを頂きました!

梅田さんの今までの足跡を伺いながら感じたのは、「自分の志向性(=好き)に正直で、リスクを負ってその志向性に従って生きてこられた」ということ。「自分の道は自分のリスクで選択され、そして選択する権利を全力で獲得されてきた」ということ。

梅田さんは「それほどたいしたことないよ」なんておっしゃるんですが、実はそこに至るまではストイックなまでの自己鍛錬があったのだろうと容易に推測できました。

ブログが今までの「著者-読者」の関係を変えた瞬間

今回の出会い、ブログというツールを通じ、通常では絶対会うことが無い(会うことが出来ない)著者と読者がここに出会ったという事実。これはなんて表現すべきでしょうか。「ありえない」としか言いようがない。。ネット上での「梅田私塾」がリアルな私塾となる瞬間でした。

私は当然梅田さんのことを色々知っており、また梅田さんもブログを通じて私がどんなことを考えているかご存知だったので、不思議なことに初めて会った感じがあまりしないんですね。この感覚がとても不思議。ですので、どんどん話が弾み、一時間では全然足りない状況でした。

ブログを続けることで、自分の世界が広がるっていうことが本当にあるんだと改めて感じながら、梅田さんとお別れしました(あっ、もう既に次の来客が。。)

梅田さん、今回は本当にありがとうございました。そして今後とも宜しくお願い致します!


いかがでしたか?もし「おもろい!」と思われたらクリックをお願いします!


にほんブログ村 経営ブログへ

三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな 〜アンディ・グローブ〜

ちょっとご無沙汰しておりました「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな」。梅田望夫さんの著書「ウェブ時代をゆく」で下記の文章に大変感銘を受けたことをきっかけにスタートしております。

「三十歳から四十五歳」という難しくも大切な時期を、キャリアに自覚的に過ごすことが重要である。(P194)

だとしたら、具体的にどうすれば自覚的に過ごすことができるのかと考えている中で出会ったのが、梅田望夫さん提言の「ロールモデル思考法」であります。

「好きなこと」「向いたこと」は何か漠然と自分に向けて問い続けてもすぐに煮詰まってしまう。頭の中のもやもやは容易に晴れない。「ロールモデル思考法」とは、その答えを外界に求める。直感を信じることから始まる。外界の膨大な情報に身をさらし、直感で「ロールモデル(お手本)」を選び続ける。たった一人の人物をロールモデルとして選び盲信するのではなく、「ある人の生き方のある部分」「ある仕事に流れるこんな時間」「誰かの時間の使い方」「誰かの生活の場面」など、人生のあらゆる局面に関するたくさんの情報から、自分と波長の合うロールモデルを丁寧に収集するのだ。

今回ですが、最近気合の入ったこの男の伝記が発売され、気になっていてこの一か月あたり色々調べておりました。梅田さんも「ロールモデル」としていつも挙げられている男。その名は半導体メーカー・インテル創業者、アンディ・グローブ

1968年にゴードン・ムーアロバート・ノイスとともにインテルを創業し、その後COO、CEOを歴任。シリコンバレーの小さな半導体ベンチャーに過ぎなかったインテルを売上3兆円超の世界一の半導体メーカーに育て上げた立役者として、スティーブ・ジョブズも、エリック・シュミットも、マイケル・デルも師と仰ぐシリコンバレーの巨人です。

私がなぜアンディ・グローブに興味を持ったか。アンディはアメリカ人ではなく、ユダヤハンガリー人であり、ナチス他によるユダヤ人迫害から逃れるためにアメリカに亡命し、そこから今の成功に至ったということを知ったからであります。

転職が一般的なシリコンバレーにおいて、自らが創業した会社に30年以上も在籍し続け、様々な伝説とともにインテルを超優良企業に育てたアンディ・グローブ。その素晴らしい経歴に至るまでの三十歳から四十五歳の道のりは、極めて苦しく険しいものでした。今回はアンディ・グローブのその足跡に学びたいと思います。

数字に見るアンディ・グローブが成し遂げたことの「凄さ」

まずは売上高と営業利益の推移が下記になります。

アンディがCOOに就任した1979年からCEOを退任する1998年までの20年間で、インテルの売上高は668百万ドルから26,300百万ドルへと約38倍に、純利益高は77.8百万ドルから6,068百万ドルへと約78倍に。。

この間売上高純利益率が15%から20%の高水準で推移しており、結果純利益の伸び率は売上の伸び率の倍以上になっている事実が、アンディ・グローブの経営者としての「凄味」を感じさせます。。

アンディ・グローブの足跡 〜いかに大切な三十歳から四十五歳を過ごしたか〜


ナチスの迫害を受けた幼少時代、そしてアメリカに亡命

1936年9月にハンガリーで生まれたアンディ・グローブ。そのころのハンガリーは動乱の真っただ中。ヒトラー率いるドイツ軍が周辺諸国を手に入れようと武力侵攻を繰り返し、ハンガリーもその標的になっておりました。

また、加えてアンディ達を苦しめたのは、ヨーロッパ全域に広がっていた「反ユダヤ」思想。ユダヤハンガリー人であったグローブ一家は、ドイツ軍の武力侵攻と、ユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)の魔の手から逃れ、必死にハンガリーで生き延びるようとする日々でした。

またアンディはそんな中「しょうこう熱」を患い、生死をさまよった結果、難聴となってしまったのです。このようにアンディは数々の「トラウマ」を自分の中に抱えながら幼少時代を過ごすことになります。

そんな厳しい環境の中でも勉学に励み、素晴らしい成績を残していたアンディ。1955年にブタペスト大学に入学したものの、ブタペストではハンガリー動乱が勃発し、大学は閉鎖に。グローブ一家はこのままでは生きていけないと悟り、アンディをオーストリアに逃げます。そしてアンディはウィーンの国際救済委員会(IRC)に掛け合い、一旦は「No」を突きつけられるものの、鉄の意思でアメリカ亡命嘆願、IRC職員はアンディのあまりの説得力に圧倒され、アメリカ行きを認めます。当時アンディ20歳。。

アメリカに学び、そして半導体の世界に

やっとの思いでアメリカに辿り着いたアンディは、仕事に就いて、早く経済的に自立し、両親をハンガリーからアメリカに呼びたいと考えていましたが、勉強したい熱意は変わらず、公立大学で学費がかからないニューヨーク市立大学の化学エンジニアリング学部に入学。そして在学中の1958年、ドイツ軍の侵攻から逃れ、オーストリアから亡命してきた女性、エバ・カスタンと出会い、学生結婚。そして1959年に大学を首席で卒業します。当時23歳。

アンディは早く両親をアメリカに呼ぶために卒業後は就職を考えていましたが、やはり学業への興味が盛り上がり、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に進学。ここでもアンディは勉学に励み、素晴らしい論文を数々書き上げ、高い評価を得ます。

そんなアンディには多くの企業から就職のオファーが。その中でも、後に共にインテルを創業することとなる、半導体業界にて「ムーアの法則」で知られる巨人ゴードン・ムーアから直々に入社を強く要請され、フェアチャイルド・セミコンダクターへの入社を決心します。当時27歳。

そして仕事を得たアンディは、27歳となった1962年に、ついに両親をハンガリーからアメリカ・シリコンバレーに迎えることができたのです。

インテルの創業、そして苦悩の日々

フェアチャイルド時代、まさに熱に浮かされたかのように東奔西走していたアンディ。しかしフェアチャイルドの業績は思わしくなく、また幹部の権力闘争などもあり、ゴードン・ムーアが退社し自らに会社を起業することを決心。そしてフェアチャイルドにて技術面で異彩を放っていた偉人ロバート・ノイスも参加するとのこと。この話を聞きアンディもこの起業への参加を決意。こうしてインテルが産声を上げたのです。当時アンディ32歳。

しかしインテル船出は波乱の連続。。1968年に最初の製品である64ビットSRAM「3101」を発表、1969年には最初のMOSチップである「1101」を発表するも、市場で全く相手にされない始末。。そして満を持して発売した一キロビットDRAM「1103」も、欠陥問題発生で大苦戦。しかしアンディが後に「地獄でしたね」と語るぐらいの苦しい時期を経て、なんとか「1103」はヒット。インテルに多大な利益をもたらします。そして1971年には初の黒字化を達成、株式公開を達成します。当時アンディ35歳。

偶然の産物であったマイクロプロセッサの登場

DRAM事業をメインとしてそのビジネスを拡大してきたインテル。そんな中、インテルの将来を担う新製品が「偶然の産物」として生まれます。それが今パソコン市場で業界標準となっているペンティアムプロセッサなどの「マイクロプロセッサ」

このマイクロプロセッサが生まれたきっかけは、なんと1969年に日本企業のビジコンという会社が、インテルに電卓用に数種類の半導体からなるチップセットを設計・製造してほしいという依頼をしたことにあります。このときビジコンは15個程度のチップセットを考えていたのですが、テッド・ホフという天才エンジニアがこれを1チップ化した4ビットマイクロプロセッサ「4004」を開発。これがいまのペンティアムの源流になります。

その後、1972年に8ビットマイクロプロセッサ「8080」を、1978年には16ビットマイコン「8086」を発売。1979年には8086の廉価版「8088」を発売するなど、DRAM主体のインテルの商品群の中でも序々にその存在感を増していきます。

「8080」開発当初は、マイクロプロセッサをどのような用途で使うかをインテル自身がまだ見えていないところがありました。しかしアンディ・グローブだけは違います。アンディはすでに1978年の自分の日誌の中でマイクロプロセッサの用途として「パソコンこそ金脈だ!」と記しており、まさに優れた先見の明があったと言えます。当時アンディ42歳。

そんな夢の製品が生まれ、育ちつつある1979年、アンディは43歳にしてインテルCOOに就任。しかし、アンディを待っていたのはバラ色の世界ではなかったのです。

DRAM撤退、マイクロプロセッサへの集中、そして更なる成長へ

インテルの創業事業であったDRAM事業。しかし1970年代後半から80年代にかけて、東芝、日立、NECなどの日本企業がその優れた製造技術を武器にDRAMの低価格攻勢でインテルの牙城を攻め立てるようになります。これにインテルも新製品開発等で対応するも大苦戦。1974年にはシェア82.9%を獲得していましたが、1984年にはなんと1.3%まで落ち込む大惨敗を喫すこととなったのです。

このような極めて厳しい状況の中、アンディは社内の反対、権力闘争を乗り越え、インテル創業事業であるDRAM事業からの撤退を決意し、実行。そして1986年には70年代を通じ初の赤字決算、8工場を閉鎖、30%の人員削減を断行します。当時アンディ50歳。

そして1987年、アンディは51歳にてインテルCEOに就任します。

これを機に、インテルはマイクロプロセッサへの集中を進めたのですが、アンディの逸話の一つとして語られるのがCISC(複数命令セットコンピューティング)」と「RISC(縮小命令セットコンピューティング)」の二者択一を迫られたアンディの決断のお話。。

インテルCISC中心で事業展開してきたのですが、サンマイクロシステムズ他多数の企業が、CISCよりシンプルで効率の良いRISCを採用、マイクロプロセッサ業界スタンダードがRISCとなるのではないかと言われた時代がありました。そんな中、インテルRISCを脅威と感じ、インテル内でもRISC対応マイクロプロセッサを開発、一時期CISCRISC両方が混在する状況となってしまったのです。これにより、アンディ曰く「あと一歩で会社を破滅させるところであった」と語るほどインテル社内は大混乱に。

この混乱状態が続きましたが、アンディは逃げることなく、事態の修復を試みます。1991年に社内のベクトルを統一するべくCISC一本で行く」ことを決断。この決断がそのあと続くインテルの繁栄を決定づけた意思決定であったと高く評価され、アンディの経営者としての名声を確固たるものとしたのです。当時アンディ55歳。

その後インテルは本格的な「ウィンテル」時代の恩恵を受け大躍進。売上高3兆円を超える世界最大の半導体メーカーへと成長。アンディ自身も1997年、61歳にして「タイム」紙のマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれるなど、シリコンバレーを征した巨人として、今も数多くの人の「ロールモデル」として尊敬を集めています。

最後に 〜心の中にカサンドラを持て〜

アンディ・グローブは、「CISCRISC」の決断を振り返り、「組織の中に、変化の予兆を察知できるカサンドラ(凶事の予言者)を持て」と言っています。カサンドラとは、迫りくる変化に誰よりも早く気づき、早い段階で警告を発する存在。これをを社内、そして自分の中にも持ち続けて疾走したアンディのインテル30年でありました。

このアンディの生き様を見て、梅田望夫さんは著書「ウェブ時代をゆく」でこんなことをおっしゃっています。

大小を問わず組織に勤めるすべての人たちに、危機を認識する最大の助けとなるカサンドラを自らの内部に持つべきだ、そう私は提言したい。(P194)

同じ組織に同じ空気を吸いながら何十年も過ごすことにより起こる自らのガラパゴス化ガラパゴス化により、客観的な視点で自社を見ることができず、適切な意思決定ができない。アンディは「カサンドラ」を持つことにより、こういった状況に陥るのを防ぎ、30年勤め上げたインテルにおいても、きわめて冷静な視点で適切かつ大胆な意思決定ができた。

アンディの生きざまに触れ、改めて「どうすれば自分の中にカサンドラを持つことができるのだろうか」を考えさせられました。そう簡単に結論でないですけどね。

最後に、アンディ・グローブの名言である下記の言葉で締めたいと思います。現在アンディ・グローブパーキンソン病と診断され、懸命に病と闘っているとのこと。一日も早い回復をお祈り申し上げます。

「Only The Paranoid Survive(パラノイア<病的な心配症>のみが生き残る)」


いかがでしたか?もし「おもろい!」と思われたらクリックをお願いします!


にほんブログ村 経営ブログへ

任天堂 売上高2兆円突破を記念し、数字を色々集めてみました

先日「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな〜任天堂社長 岩田聡氏〜」をアップした数日後の8月29日、「任天堂 売上高2兆円に 2年で倍増」 (任天堂の業績上方修正のお知らせ)の報道がありました。「ついに来た!」という感じでしょうか。

これを記念してというわけではないのですが(笑)、任天堂関係の数字が色々とありましたので、ちょっといくつかご紹介し、任天堂の「強さ」をみようかと思います。

任天堂の売上高・営業利益推移

前回も取り上げた売上推移のグラフに、今回発表の2009年3月期の売上・営業利益予想を追加してみました。

売上高は2007年からのわずか3年間で約2倍の続伸。ベンチャー企業などであれば短期間で売上倍増というケースはありますが、任天堂は売上1兆円に届こうかという巨大企業。これが3年という短期間に「売上倍増・2兆円突破」ですから、任天堂にとってのこの3年間はとんでもないことをやった3年間だと言えるでしょう。

また営業利益は2007年から3年間で売上高の伸びを上回る3倍近い伸び。すごいとしか言い様がありません。よく任天堂の高利益率の理由に製造機能を持たないファブレスメーカーであることが言われますが、それだけではないような気がします。一度良く分析してみたい。

また岩田聡社長就任(2002年)から、売上高は5,548億円⇒2兆円で3.6倍、営業利益は1,191億円⇒6,500億円と約5.5倍に続伸しております。すんごいっすね。。

日系企業時価総額ランキング

下記が08年9月5日時点での日系企業時価総額ランキングです。

任天堂は早々たるビッグネームの中で第5位。つい最近までNTTドコモを押さえ第4位だったんですが、直近を調べたら1ランクダウンしてました。しかしゲームオンリー(今もちょっと花札とかあるんかな。。。)の会社ですからね。この10傑にいる任天堂。かなり異色な存在ですね。。。

ゲーム機販売台数シェア

ゲーム機販売台数のシェアってなかなか見つからないんですが、やっと見つけたものです。私的には世界シェアを探し出したかったのですが、ちょっと見つからず、国内シェア実績です。

2007年度のシェアですが、任天堂圧勝ですね。特に注目すべきはDS。初代DSが04年11月発売、DSLiteが06年3月発売ですが、まだ圧倒的なシェアを維持しているんですね。ちなみに初代PSPは04年12月発売、PSP-2000が07年9月発売、PSP-3000が08年10月16日発売予定で、結構新型モデルを投入していますが、シェアは依然として大きな差がありますね。最近PSPの巻き返しがすごいとよく聞きますし、今後どう推移していくか、目が離せません。

DS・Wii販売台数推移

2006年から2009年のDS・Wiiの販売台数推移のデータもありました。

DSについては、さすがに09年の販売台数は前年を下回るだろうとの予想でしたが、今回の業績修正で250万台上乗せ、前年を上回る3,050万台に上方修正。本当に根強い人気ですね。Wiiは快調そのもの。150万台上乗せし、前年対比47%増の2,650万台。これからどこまで伸ばせるかが勝負どころでしょうか。

任天堂 携帯型ゲーム機 累計販売台数

任天堂のHPに「資料集・ヒストリカルデータ」というコーナーがあり、1980年代からのゲーム機別の販売台数推移のデータがあります。これがかなり面白い。これをベースに色々と見てみました。まずは携帯型ゲーム機累計販売台数です。

これは2008年6月までの実績ですが、DSは累計販売台数7,756万台。先ほどの2009年度の販売予想を考慮すると、2009年度中に一億台を超える可能性は高いですね。

過去の携帯型ゲーム機との比較が面白い。ゲームボーイ約15年かけて1億1,870万台を販売しています。もし2009年度中に一億台を突破すると、約5年弱で一億台を突破することになり、ゲームボーイとの単純比較ですと、DSはゲームボーイ約3倍の速さで売れていることになります。

ですが、ゲームボーイの1億台越えというのもすごいですよね。任天堂据置型ゲーム機で苦しんだ時期が長かったですから、その苦しいときを支えたのがゲームボーイ、そしてゲームボーイアドバンスだったんだろうと思います。

また、日本国内での販売台数割合が3割で、7割は海外での販売。別の情報では、任天堂の海外売上比率はほぼ9割に達しているとのことです。

またソニーPSPの販売台数を入れてみたのですが、07年3月末実績の累計生産台数のデータで行く2,539万台。別の2008年7月の記事ではPSPは08年3月末時点で全世界にて3,760万台を発売という情報も。いずれにせよ、DSはPSPを圧倒した結果になってますね。

任天堂 据置型ゲーム機 累計販売台数

まずは過去の任天堂据置型ゲーム機との比較から。。

初代ファミコン約10年で累計6,192万台を販売Wiiが発売から約1年半で累計2,963万台を販売しており、単純計算で初代ファミコン約3.2倍の速さで売れていることになります。

ちょっと面白いのが地域別販売台数の割合。初代ファミコンスーパーファミコンでのその他(おそらく欧州だと思うのですが)の割合は14%なんですが、ニンテンドー64では21%、ニンテンドーゲームキューブでは22%と段々とその割合を増やしており、Wiiに至ってはその他(欧州)の比率が34%を占めるまでになっています。「エリザベス女王がWii に夢中!」という報道もありますし、ヨーロッパでは任天堂の人気が段々高まってるんでしょうね。イギリス人の友人が、イギリスに帰るときに、秋葉原で大量のポケモンカードをお土産に買っていました。。

それにしても、ニンテンドー64の販売台数の日本国内割合が17%、ゲームキューブが19%とは。。。日本人が買わなかったんですね。。その時に何が起きていたかというと、ソニーのプレステ旋風ですね。

これも初代PSの2007年3月末までの累計生産台数実績PS2の2007年3月末までの累計生産台数実績 PS2の2007年3月末までの累計生産台数実績のデータを使い、初代プレステ、プレステ2プレステ3との簡単な比較をやってみました。。

初代プレステ、プレステ2は本当によく売れたんですね。初代プレステの累計生産台数が1億249万台プレステ21億1,789万台岩田聡社長もすごいんですが、プレステ生みの親である久多良木健・前ソニーコンピュータエンターテイメント社長も、色々言われていますが、本当にすごかったんだなと私は思います。

これでいくと、Wiiの3,000万台というのはまだまだこれからといった感じかな。やっぱりWiiには「累計販売台数1億台越え」を目指して欲しいところ。先ほどのWiiの販売台数推移でいくと、2009年3月末で販売開始から3年で累計販売台数が5,050万台。初代プレステが累計生産台数1億台越えに約10年プレステ2約5年かかっています。またプレステ2は発売から約3年で累計生産台数5,000台を越えており、この比較でいくとWiiの勢いはプレステ2の勢いとほぼ同じぐらいでしょうか。

次世代機は2012年?引き金を引くのは任天堂!?−アナリストなどの記事もあり、今後も任天堂の動きにも目が離せそうにありませんね。


いかがでしたか?もし「おもろい!」と思われたらクリックをお願いします!


にほんブログ村 経営ブログへ

三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな 〜任天堂社長 岩田聡氏〜

ちょっとご無沙汰しておりました「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな」。梅田望夫さんの著書「ウェブ時代をゆく」で下記の文章に大変感銘を受けたことをきっかけにスタートしております。

「三十歳から四十五歳」という難しくも大切な時期を、キャリアに自覚的に過ごすことが重要である。(P194)

今回ですが、梅田望夫さんのウェブブック「生きるための水が湧くような思考」の中で、若者たちの新しい「ロールモデル」(お手本)として見つめ直す必要がある。」と記述されている人物。その名は任天堂代表取締役社長 岩田聡

当時ソニープレイステーション2」の後塵を拝していた任天堂代表取締役社長に就任後、ニンテンドーDS/DS LiteWiiを世に送り出し、瞬く間に任天堂を首位の座に返り咲かせた立役者、岩田聡。現在のその華麗な実績に至るまでの30歳から45歳の道のりは、極めて苦しく険しいものでした。今回は岩田聡さんのその足跡に学びたいと思います。

数字に見る岩田聡が成し遂げたことの「凄さ」

まずは売上高と営業利益の推移が下記になります。

岩田さん社長就任の2002年から2008年までの7年間で、任天堂の売上は5,548億円から1兆6,724億円へと約3倍に、営業利益は1,191億円から4,872億円へと約4倍にと急拡大。特に売上を3倍に拡大しながら営業利益をそれ以上の4倍に拡大させている点に、「経営者 岩田聡」の凄さを痛感します。

次は株価の推移。これまたすごい。。

社長就任から2008年までの7年間で、株価は17,600円から49,200円へと2.8倍に(同時期の日経平均株価は11,901円から12,666円で1.06倍)。2008年7月現在の任天堂時価総額は7兆8,768億円で、トヨタ三菱UFJフィナンシャルグループ、日本電信電話(NTT)に次ぐ4位。5位以下はNTTドコモキヤノン、ホンダ、三井住友フィナンシャルグループみずほフィナンシャルグループ松下電器産業。。。名実ともに任天堂は日本を代表する企業へと躍進しています。

岩田聡の足跡 〜いかに大切な三十歳から四十五歳を過ごしたか〜


札幌に天才プログラマー現る

北海道札幌市で高校生活を送っていた岩田少年は、彼を侵食忘れるほど夢中にさせるものに出会います。それは米ヒューレット・パッカード製のプログラミングができる電卓。これはアポロ計画の宇宙飛行士が宇宙に持ち込んだ高機能電卓で、高額ながら岩田少年はこれを手に入れます(どうやって手に入れたかはわかりませんでした。。)

当時はパソコンも、インターネットもない時代。そんな中。岩田少年は情報が限られる中電卓で「ゲーム」を作ることにのめりこみ、友達にそのゲームを見せては一緒に楽しむといった経験を経て、「ゲームづくり」にどんどんはまっていきます。

しかしここで終わらないのが岩田少年。岩田少年は自分で作ったゲームを日本のヒューレット・パッカード社の代理店に送りつけます。それを受け取った代理店は「札幌にとんでもない高校生がいる」とびっくり仰天。。山のような技術資料を岩田少年に送りつけたという逸話が残っております。このとき、まだ17歳。。。

偶然の出会いからHAL研究所

岩田少年は東京工業大学に進学、情報工学を専攻します。プログラミングを勉強するのですが、札幌で友達に自分の作ったゲームを見せては喜ばすというわくわく感がない日々。。そんな岩田君の足は、池袋の西武百貨店のパソコンコーナーに向かっていました。そこは、プログラミング好きが自分の腕を披露しあい、自分の腕を磨いていた「プログラミング道場」のような場所だったのです。

ここでも持てるプロミング能力を存分に発揮し、一目置かれる存在となっていた岩田君。そしてそのお店でアルバイトをしていた店員が岩田君に声をかけます。

「こんど会社を立ち上げるんだ。その会社でプログラマーやらないか。」

この会社が秋葉原のマンションの一室にあったHAL研究所。岩田君はバイトという名の「HAL研唯一のプログラマー」として会社に居座るようになります。そして寝食を忘れてプログラミングの日々。

そして無事に大学を4年で卒業した岩田君は、大きな迷いもなく当時社員数5名だったHAL研究所に、開発担当社員第一号として入社します。当時22歳。

HAL研究所事実上倒産、32歳にして企業再建責任者に

岩田聡HAL研究所に入社した一年後の1983年。岩田聡は衝撃的なものに出会います。それが彼の将来を決定づけるゲーム機、任天堂ファミリーコンピュータファミコン。「こんなものが15,000円か。これは世の中が変わる気がする。どうしてもこれに関わりたい」と強く思った岩田聡は、任天堂の京都本社を訪れ、ゲームソフトの受託開発を請願。請願は見事成就し、「ピンボール」「ゴルフ」といったファミコン初期の多くのゲームソフトの開発に関わります。当時24歳。

HAL研究所任天堂向けゲームソフト開発を中心にその規模を拡大し、社員数は90名近くに。そして山梨にその拠点を移転した1990年、岩田聡は取締役開発部長に就任します。当時30歳。

しかし、極めて順調なゲーム開発者人生を送っていた岩田聡に、最初の試練が立ちはだかります。

1992年、HAL研究所はゲームソフトの売上不振と山梨県での不動産投資失敗を原因に、多額の負債を抱え、和議(現在の民事再生法)を申請。HAL研究所は事実上の倒産となります。

倒産したHAL研究所の再建支援に乗り出したのは任天堂でした。そして当時任天堂社長の山内溥氏が再建支援の条件として提示したのが岩田聡を社長にすること」。引くに引けない岩田聡「もし逃げたら一生後悔する」と決断、代表取締役に就任します。当時32歳。

HAL研究所再建に奔走、6年で借金完済

岩田聡はまず「事業の選択と集中」に取りかかります。当時はパソコン関連製品事業とゲームソフト事業の2つの事業を展開していましたが、パソコン関連製品事業を分割し(2002年に解散)、HAL研はゲームソフト事業一本に絞り、経営の立て直しを目指します。

また、岩田聡は社員全員との面談を実施。長い時には3時間を超える面談もあったという。この面談を通じて、岩田聡は自分の経営者としての判断の尺度を模索すると同時に、自分の考えを社員に直接語りかけることにより、沈みがちだった従業員のモチベーションを維持・向上させることに尽力しました。これを再生期間中ずっと継続します。

この必死の努力は実を結び、「星のカービィー」をはじめ、「MOTHER2」「大乱闘スマッシュブラザーズ」などが大ヒット。HAL研究所は15億円の負債を6年で完済、1999年に和議手続きを完了させ、見事再建を果たします。このとき39歳。。

任天堂に入社もソニープレイステーション」を追う日々

見事HAL研究所を再建した岩田聡は、当時の任天堂社長の山内溥氏の熱烈なラブコールを受け、取締役経営企画室長として任天堂に入社。しかし、当時の任天堂どん底の状態でありました。。任天堂は1994年発売のソニープレイステーション」に首位を座を明け渡し、また1999年発売の「プレイステーション2」によりその差は拡大。任天堂岩田聡氏入社後の2001年に「ニンテンドーゲームキューブ」を発売するも「プレイステーション2」をキャッチアップすることはできず、首位返り咲きならず。。このとき41歳。。

また最も深刻な問題はソフトメーカーの任天堂離れ。当時の「プレイステーション2」の躍進ぶりから、多くのゲームソフトメーカーが供給先を任天堂からソニープレイステーション2」を選択し、任天堂へのソフト開発をストップしたのです。特に「ファイナルファンタジーシリーズ」を有するスクウェア(現スクウェアエニックス)の離反は任天堂の凋落に大きな影響を与えました。

その凋落ぶりは、赤字ではなかったものの、「マイクロソフトに買収されるのでは」との噂が飛び交うほどでした。

そんな厳しい状況の中、取締役経営企画室長であった岩田聡についにその時がやってくるのです。。

想定外の社長就任、そしてDS、Wii誕生

2002年のある日、当時社長の山内溥氏は岩田聡を自室に呼び出します。そして1949年来、53年間君臨した社長の座を岩田聡に譲り渡すことを本人に告げます。任天堂は典型的な同族企業で山内氏自身も3代目社長。ファミコン以来の優秀な古参社員を差し置き、入社2年目の岩田聡に社長の座を譲るという決断。しかも42歳。当時かなりの驚きを持って迎えられました。そして皆が言います。「岩田って誰??」

岩田聡は、HAL研究所再建の次の仕事として、当時マイクロソフトの「XBOX」にも追い抜かれ、屈辱の業界3位の地位に甘んじていた任天堂の再建を託されたのです。

岩田聡は、当時ゲームがあまりにも高度で複雑なものになり、ゲーム人口が減っていた現実に危機感を感じていました。岩田聡はこのゲーム人口減に歯止めをかけるために、ゲームに関心が薄い大人や女性層を開拓し、ゲーム市場のすそ野を広げるゲーム機を作ることを決心。その第一弾として、2004年12月に2画面構成、タッチパネル方式を採用した携帯型ゲーム機ニンテンドーDS」を発売。これが同時期発売のソニープレイステーションポータブルPSP)」を抑え大ヒット。その翌年2006年3月にさらに機能を充実させた「ニンテンドーDS Lite」を発売。そして「脳トレ」をはじめとする、今までになかった楽しみ方を提供するゲームソフトが続けて大ヒット。ニンテンドーDS/DS Liteの現在の累計販売台数は全世界で7,754万台。。

そして2006年12月、直感的な操作が可能なリモコン型コントローラーを採用した据え置き型ゲーム機Wii」を発売。Wiiの現在の累計販売台数は全世界で2,962万台。同時期発売の「プレイステーション3」に大きな差をつけ、任天堂はついに13年ぶりにゲーム機市場首位の座に返り咲くことができたのです。

最後に 〜ベンチャーで育った人材の「日本株式会社」への還流〜

梅田望夫さんは、岩田聡さんの生き様を見て、下記のことをおっしゃってます。

一流大学を出ても「好きなこと」を貫き、ベンチャーに参画(二十代)、苦労しながらも経営経験を積み、その過程で大企業経営者とも出会い(三十代)、活躍の舞台をより大きな場所へ移していく(四十代以降)。これが岩田のキャリアパスの要約だが、彼より上の世代にはこういう道を歩んだ人材の層が薄い。しかし日本でも、一九七五年以降生まれの若い世代においては、進取の気性とバイタリティに溢れる優秀な人材ほど「日本株式会社」ではない道へ進む傾向が徐々に強まってきた。

 一五年後の日本企業社会を考えるとき、新卒で「日本株式会社」的世界に進まなかった潜在能力の高い若者たちが、成功したり失敗したりしながらも密度の濃い人生を歩み、岩田のような人物に大きく成長して「日本株式会社」に還流する姿を私たちは思い描くべきだ。今こそ岩田聡という先駆者を、若者たちの新しい「ロールモデル」(お手本)として見つめ直す必要があるのである。 (生きるための水が湧くような思考 第4章「岩田聡論:任天堂復活が示す、日本企業の未来図」より)

岩田聡さんの生きざまを見て、そして梅田さんの引用を読んで思うのは「リスクを取って好きを貫くことの重要性と厳しさ」。そしてその厳しさを乗り越える原動力は「自分が変わっていくことを楽しむ」というオプティミズムに満ちた未来志向を持てるかどうか。

そんな岩田聡さんを象徴するようなこの言葉で締めたいと思います。私は京都で長く生活しておりました。岩田聡さん、そして任天堂にはこれからも京都から世界にどんどん発信していってほしいと心より思っています。

わたしはきっと当事者になりたい人なんです。あらゆることで傍観者じゃなくて当事者になりたいんです。(中略)当事者になれるチャンスがあるのに、それを見過ごして「手を出せば状況がよくできるし、なにかを足してあげられるけど、たいへんになるからやめておこう」と当事者にならないままでいるのはわたしは嫌いというか、そうしないで生きてきたんです。(ほぼ日刊イトイ新聞 –社長に学べ!糸井重里岩田聡の対談より)


今回日刊ほぼ日刊イトイ新聞 –社長に学べ!糸井重里と岩田聡の対談」を参考にさせて頂きました。岩田さんの素晴らしい言葉満載ですので、ぜひご一読下さい。


いかがでしたか?もし「おもろい!」と思われたらクリックをお願いします!


にほんブログ村 経営ブログへ

梅田望夫著「生きるための水が湧くような思考」 読了

発刊からずいぶん時間が経ってしまったのですが、梅田望夫さんのウェブ・ブック「生きるための水が湧くような思考」、および梅田さんが「合わせて読んで欲しい」とブログでおっしゃっていた「シリコンバレー精神・文庫のための長いあとがき(60枚!)」を読了しました。かなり濃く深い内容でしたのでかなり時間を要しましたが、読後に私が考えたことを書いてみたいと思います。みなさんも「生きるための水が湧くような思考」を是非ご一読下さい。

「生きるための水が湧くような思考」が指し示してくれるもの

梅田さんはいつも自分の存在を「炭鉱のカナリア」に例えられます。時代の「見晴らしのいい場所」に立ち、時代がどういう方向に向かっているのかを先んじて指し示す役割。これが「炭鉱のカナリア」。「時代の変化」というものは、実際その変化が起こっている時にははっきりと認識できないもの。ある時点で立ち止まり、過去を振り返り、現在と過去の比較の中でその間の差異を認識して初めて「世の中が変わった」ことに気づく。しかし、その時点で変化を認識したとしても、すでにその変化に対応できない自分になってしまっている。

このリスクは非常に怖いものであり、自分の内部に「炭鉱のカナリア」を持つとともに、外部に客観的な「炭鉱のカナリア」を持ち、その両方の合わせ技で「これから先」を見通すことの重要性が益々増しています。今回のウェブ・ブックは、Webの世界、携帯小説(梅田さんが実際に携帯小説を読破!)、将棋解説、野球。。。様々なカルチャーの垣根を超え、まるで万華鏡のようでありながら、整然と構造化された知として、「これからの時代」の姿を「海図」として指し示してくれます。

但し、海図は示されたとしても、「航路=自分が行く道は自分でしか見つけることはできない」というのがこのウェブ・ブックの根本精神。ですが私たちに「これからの時代」を踏まえた「航路の見つけ方」のヒントを与えてくれるのもこのウェブ・ブックだと思います。

「炭鉱のカナリア」が指し示した「海図=これからの時代」とは

ウェブ・ブックの序章 世界観、ビジョン、仕事、挑戦−個として強く生きるには。この章にて炭鉱のカナリアが先んじて見た「これからの時代」、いや「今すでに起こっている時代の変化」を「無限の選択肢がある時代」というキーワードで指し示してくれます。

みんなの生活というのは、僕が想像できないほど選択肢が多い。一時間後に誰とどこで何をしているのか、誰とも会わずに勉強しているのか、来年になったら留学するのか、起業するのか、就職するのか、就職するとしたら外資も含めどこに就職するのか、選択肢がバーンと広がっている。(中略)そういう自由、選択肢の無限性を前にして、道具もいろんなものがある。その一方で、自己責任で物事を選んでいかないといけないという時代に、みなさんは生きています。(「序章 世界観、ビジョン、仕事、挑戦−個として強く生きるには」より)

Web技術の進展をはじめとする劇的な環境変化の恩恵を受け、私たちは行動・活動する範囲の自由、手段の自由、リソースの自由を手にしましたが、これは今までにない高いレベルで「自己責任を問う」世界であり、「おまえは何者か」ということをいやになるぐらい問われる世界に突入したのだということを「炭鉱のカナリア」が私たちに示唆しています。

ここで「選択肢は無限大」を宣言しつつ、「自己責任で物事を選んでいかなくてはならない」ことを強く主張することにより、このウェブ・ブックは「海図」を示すものの、「航路」は自分が決めるものだという根本思想を再認識させてくれます。

「これからの時代」が私たちに突き付ける課題とは

「無限の選択肢があるこれからの時代」が私たちに突き付ける課題。数ある中で私が一番のキモだと考えるのは「コモディティー化のリスク」。全てのものが恐ろしいスピードで陳腐化してしまう「これからの時代」。必然的にそれに関わり、しがみついている人も、現状維持のままではすぐに「コモディティー化」してしまうのが「これからの時代」。

また最近携帯電話の世界でよくいわれる「ガラパゴス化のリスク」も大変恐ろしい。私たちの選択肢はワールドワイドに広がっているにも関わらず、一国にとどまり、外を見ようとしなかったがために、その国でしか存在しえない特殊な「珍獣」と化してしまっている。「コモディティー化」はしていないかもしれないが、あまりにも一箇所しか見ていないので、結果ワールドワイドではサバイバルできない。

個人レベルでも「ガラパゴス化」のリスクがあると痛烈に感じています。今や一つの企業で勤め上げるだけでなく、色んな可能性・選択肢が開かれている時代。その一つの企業だけの世界しか見ていないことによって引き起こされる「自らのガラパゴス化」。その企業では重宝されるものの、「ガラパゴス化」しているがゆえ、他の企業では通用しない。終身雇用は崩壊、合併・分割など企業再編の自由度が増す中、明日はどの企業に属しているかわからない時代に、「コモディティー化」そして「ガラパゴス化」のリスクは非常に大きいものがあります。

ではどうすればいいのか。梅田さんはどうやって「コモディティー化」「ガラパゴス化」せず、自分の個を発揮・維持し続けてきたか。私は梅田さんのこの一言に集約されていると思います。

絶対にコモディティー化しないのは、個の固有性だけです。その固有性を競争力のある状態にしていくことに、どれだけ意識的に生きていくか。これは「勤勉性」とは別のことです。(「序章:世界観、ビジョン、仕事、挑戦−個として強く生きるには」の「(8)個の固有性に意識的に生きる」 より)

どのように「意識的に生きて」いけばいいのか

ここからは、「意識的に生きるポイント」として、私が重要であると考えた、

  1. 自分をどう規定するか(=飯の食い方)にもっと貪欲になる、
  2. オプティミズムに満ちた未来志向を持つ
  3. 強さとやわらかさを兼ね備えた「しなやかさ」を持つ、

この3つの視点で述べてみたいと思います。

(1)自分をどう規定するか(=飯の食い方)にもっと貪欲になる

私が考えるこのウェブ・ブックのハイライトはまつもとゆきひろ×梅田望夫「ウェブ時代をひらく新しい仕事、新しい生き方 前編/後編」まつもとゆきひろ×梅田望夫「ネットのエネルギーと個の幸福」。このお二人の対談において、オープンソースでいかに飯を食うかという命題を通じ、「人はやりたいことをやるときに最もパワーを発揮する」、そして「好きな仕事で幸せになることをあきらめるな」というメッセージが私たちに届けられます。つまり私たちは「好きを貫き、自分の幸せにもっと貪欲になること」を再度認識する必要があるというメッセージ。勇気づけられる言葉です。

しかし、梅田さんは「勇気づけられるだけではだめ。それだけでは何も変わらない」、そしてなにかを捨てなければこの本を読んだことにならない(第2章 レスト・オブ・アスにとっての「ウェブ時代をゆく」)という、「どうすべきか」ということへの明快な回答を私たちに指し示してくれます。

「好き」をベースに自分を規定したら、貪欲なまでにそれを追及し、「好き」の実現に貢献しないものは「やめる」。また「やめる」ことによって新しく生まれる時間について、自分の時間の使い方に対してどれだけセンシティブか」、「いま自分がここで使っている時間が正しいのかどうか」を問い続ける姿勢」(序章 世界観、ビジョン、仕事、挑戦の(2)戦略性-自分の時間の使い方は正しいか)を持ち続ける。ウェブ・ブック全体を通じ、梅田さん自身の事例を用い、「時間の使い方をストイックに追及するとはどういうことなのか」が明確に指し示されます。

また、今回のウェブ・ブックでは取り扱いが少なかったんですが、「自分をどう規定するか」に関して、梅田さんの名言「けものみち」の思考は外せません。

専門性や志向性の複合技で個の総合力を定義し、その力で自由に社会を生きていく。それが「けものみち」を歩くということだ。(「ウェブ時代をゆく」P106-107)

誰もが「好き」を追及し、その専門性の一本足打法で成功するものではない。しかし、自分の志向性(好き)をベースに、その「好きの複合技」で自分しか出せない価値を追及する生き方=「けものみち」で成功する道もある。そして自分の時間の使い方を「自分が出す価値への貢献」の観点から絶えず優先順位をチェックし、やめるべきものはやめる。私はこれがこのウェブ・ブックが示す「最適な航路=自己規定の見つけ方」だと捉えています。

但し、一匹狼が「けものみち」を歩むような生き方だけでは、厳しくて難しい「これからの時代」を生きていくことはできない。これを教えてくれるのもこのウェブ・ブックの重要な役割だと考えています。

(2)オプティミズムに満ちた未来志向を持つ

「好きなことを貫く」ことは、色んな責任とリスクを同時に背負うことにもなります。梅田さんも、まつもとゆきひろさんもリスクを背負ってチャレンジしている。しかし私たちは、怖くてそんなに簡単に「次の一歩」を踏み出せない。しかしその一歩を踏み出さないと、コモディティー化、ガラパゴス化のリスクに直面することになる。この何とも難しく複雑な問題の解決手段として梅田さんが指し示してくれる思考。それが「オプティミズムに満ちた未来志向」。

この「オプティミズムに満ちた未来志向」とは、Web未掲載ながら、ウェブ・ブックの一部に位置づけられている「附録3−シリコンバレー精神で生きる(文庫のための長いあとがき)」で語られる「シリコンバレー精神」が該当します。では「シリコンバレー精神」とは何か。こんな一節があります。

シリコンバレー精神」とは、人種や移民に対する底抜けのオープン性、競争社会の実力主義、アンチ・エスタブリッシュメント的気分、開拓者(フロンティア)精神、技術への信頼に根ざしたオプティミズム楽天主義)、果敢な行動主義といった諸要素が混じり合った空気の中で、未来を創造するために何かを執拗にし続ける「狂気にも近い営み」を、面白がり楽しむ心の在り様のことである。(P276)

私は一度だけシリコンバレーに行ったことがあります。この時の経験は、まさしく「シリコンバレー精神」にダイレクトに触れた瞬間でした。私がシリコンバレーにある現地法人のメンバーと一緒に、あるソフトウェアメーカーを訪ねたときのこと。私と現地法人メンバーは別々で行ったのですが、現地法人メンバーは何やら大きな白い箱を持ってきている。それが何だかわからずにそのまま会議室に入り箱を開けると、なんと出来たてのドーナツがたくさん!また会議室にはソフトウェアメーカー側で用意してくれたフルーツの盛り合わせとドリンクバーが!

私たちはソフトウェアメーカーにとっては「お客さん」の立場。そのお客さんが大量のドーナツを持って販売元を訪問することに驚いたのとともに、そのドーナツやフルーツを皆が気ままに食べながら、自由闊達な議論が行われる会議の在り様に衝撃を受けました。そこにはアメリカ人もいるし、中国系のメンバーもいる、トルコ人もいるし、インド人もいるし、日系アメリカ人もいる。そして日本人も。

インドのバンガロールにも行ったことがあるんですが、同じような雰囲気がありました。ビルの屋上で手作りカレーを食べながら、成功するかどうかわからない技術開発について熱心に語るインド人エンジニアの笑顔が今でも強く印象に残っています。

シリコンバレーも、バンガロールも、非常に雇用の流動性が激しく、今一緒に仕事をしているメンバーといつまで一緒に仕事ができるかは全くわからない。将来どうなるかは誰もわからないけれど、今自分たちがやっている仕事が大好きで、この技術で世界を少しでもよい場所にしたいと本気で思っている。そしてそこには悲壮感のかけらもなく、オプティミズムに満ちた未来志向が充満している。たった4日間の滞在でしたが、そんな「シリコンバレー精神」に触れた上で梅田さんの著書に触れると、乾いたスポンジが水をよく吸収するかのように、梅田さんの言葉がスムーズに私の中に入っていきます。

特に梅田さんが「文庫のための長いあとがき」の中で書かれているこの一文。これこそが混沌としてかつ面白い「これからの時代」において、私たちが「けものみち」を歩んでいくときに持ち続けないといけない、大切な「オプティミズムに満ちた未来志向」だと強く感じました。

シリコンバレー精神」が空気のように充満するこの地で、私は本当に変わった。まず「変化していく自分を楽しもうという気分」が生まれて、心が軽くなった。(P274)

(3)強さとやさしさを兼ね備えた「しなやかさ」を持つ

まつもとゆきひろ×梅田望夫「ウェブ時代をひらく新しい仕事、新しい生き方 前編/後編」において、まつもとゆきひろさんがどのようにしてオープンソースプロジェクト「Ruby」を成功させたかについて語ってくれます。そこには、貢献度が少ない人が自然淘汰されていく厳しい不文律がありながらも、優秀なエンジニアが集い、われ先にとバグを直していくような、貢献意欲の強いエンジニアを引きつける魅力を持ち続けている。当然そこにはエンジニアの技術的欲求を満たすハイレベルの技術課題があるからだと思うのですが、私はまつもとゆきひろさんがつくる「厳しくもやさしい空気」が、プロジェクトエンジニアにとって「心地よい」ものにしているのではないか。そう思ったのです。

先に述べた(1)自分をどう規定するか(=飯の食い方)にもっと貪欲になる、(2)オプティミズムに満ちた未来志向を持つ、の2つの視点においては、どちらかというと「個人」の在り方に焦点を当ててきました。しかし、これだけ世の中の変化のスピードと複雑さが増す中、個人が一人でできることには限界があると言わざるを得ません。梅田さんも「第3章 ウェブ時代 5つの定理:金言コレクション」の中で、チーム力を5つの定理の一つに挙げておられます。Rubyの成功も、まつもとゆきひろさんの力も当然ですが、まつもとさんを支えたエンジニアの存在がなければ成功しなかったと言えると思います。

まつもとさんのRubyプロジェクトを見て私が感じること。それは「個人」と「組織・チーム」を対立概念としてとらえるのではなく、その「両方を追及する思考」が今後ますます重要となってくるということ。これは何も「個人」と「組織」だけではなく、例えば「都市」と「地方」、「日本」と「世界」、「サラリーマン」と「個人事業主」など、従来対立概念として「トレードオフの関係」と考えられてきた概念すべてに当てはまります。

この「対立概念を超える」思考について、梅田さんは「5章 生きるために水を飲むような読書」の「読売新聞書評連載で選び評した12冊の本」の「第11回 対立概念に補助線を引け」にこう書かれています。

私たちを取り巻く現代ビジネス社会も、対立する概念に満ちている。「個と組織」「競争と協力」「社会貢献と営利重視」「長期雇用とコスト」「環境と経営」「創造性発揮と内部統制」「情報共有と情報漏洩」・・・。一つの難題に対して私たちは、安易に「AかBか」を選択するのではなく、「AとBの両方を追及しなければならない。身を挺して「思考の補助線」を引く本書のような知的で真摯な営みが、ビジネスの世界でも求められる時代なのだ。

梅田さんとまつもとさんの対談を読んでいると、まつもとさんは、個としてストイックに自分への厳しさを課しながら、ひとつの組織のリーダーとして、貢献してくれるメンバーに深い「愛」を注ぐことにより、「個」と「組織」という対立概念を超え、両方を満たそうとしている。そして現在も島根という地方都市を拠点に活動しながら、東京でしか最先端の仕事ができないという既成概念を飛び越え、「地方」と「都市」という対立概念に新しい補助線を引いている。このまつもとさんの「在り方」に私は「強さとやさしさを兼ね備えたしなやかさ」を強烈に感じるのです。特に島根への愛着を語られる姿に触れると、「しなやかだ」と感じざるを得ません。

私はこのブログ内の「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな〜西堀 晋氏〜にて、京都でデザイナーとして活躍され、現在はAppleのデザイナーとして活躍されている西堀 晋さんの足跡を追いながら、西堀さんのその「しなやかさ」について書いております。ここで書いた「しなやかさ」とは、「生き方・在り方が一本芯の通った竹のようにしなやかで、トレードオフの関係にあるものを対立概念と捉えるのではなく、両方をよくしなう竹のように、行ったり来たりする」さま。まつもとゆきひろさんもまさしく一本芯の通った良くしなう竹のように、対立概念を行ったり来たりすることにより、大きな成果をあげてこられた。

梅田さんが指し示してくれた「これからの時代」をサバイバルするための思考としての「しなやかさ」を持つこと。私は今回のウェブ・ブックを読み、新ためてこれが必要不可欠な思考だと感じました。

最後に〜「Stay Hungry, Stay Foolish」と「変化していく自分を楽しもうという気持ちを失うな」〜

私の大好きな、そしてこのウェブ・ブックでも引用のあるスティーブ・ジョブズスタンフォード大学の卒業式でのスピーチ。最後にスティーブ・ジョブズはこんなことを言っています。

私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。(中略)それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。

今回のウェブ・ブック「生きるための水が湧くような思考」。これは私にとってまさしく「The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)」。使えるツールと偉大な概念に満ち溢れたウェブ・ブック。この出会いに感謝するとともに、ジョブズが「The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)」を大切にしているのと同じように、私は「生きるための水が湧くような思考」を一生大切にしていきたい。

スティーブ・ジョブズは"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"の最終号の背表紙に書かれている言葉「Stay Hungry, Stay Foolish」を卒業生に捧げ、最高にかっこよくスピーチを終えるのですが、ウェブ・ブックに含まれる数多くの偉大なる金言の中で私が断腸の思いで選んだ最高の言葉は、偶然にもスティーブ・ジョブズの思考と同じだったかもしれません。この言葉でこのチョー長い読書感想文を終わりたいと思います。梅田望夫さん。ありがとうございました。

変化していく自分を楽しもうという気持ちを失うな(シリコンバレー精神 文庫のための長いあとがき P274を若干変更)

いかがでしたか?もし「おもろい!」と思われたらクリックをお願いします!


にほんブログ村 経営ブログへ