三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな 〜祖母井秀隆〜

あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。年末年始とばたばたしており、更新が滞りがちで申し訳ございません。。新年一発目は「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな」で。梅田望夫さんの著書「ウェブ時代をゆく」で下記の文章に大変感銘を受けたことをきっかけにスタートしております。

「三十歳から四十五歳」という難しくも大切な時期を、キャリアに自覚的に過ごすことが重要である。(P194)

だとしたら、具体的にどうすれば自覚的に過ごすことができるのかと考えている中で出会ったのが、梅田望夫さん提言の「ロールモデル思考法」であります。

これは、「好きなこと」「向いていること」の答えを自分の中ではなく「外の世界」に求め、自分の直感で選んだ人物を「ロールモデル(お手本)」と位置づけ、また一人だけを盲信するのではなく、多くのロールモデルの、あらゆる局面の情報を丁寧に収集し、学び続けるという考え方であります。

今回ですが、サッカー界における世界的名将、イビツァ・オシムジェフユナイテッド市原への招聘に成功、ジェフ市原の躍進に大きく貢献後、当時フランス2部リーグ所属であったグルノーブル・フット・38のGMに就任し、就任1年目から45年ぶりの1部リーグ昇格を成し遂げた男、祖母井秀隆(うばがいひでたか)。

以前、30歳から45歳を無自覚に過ごすな 〜ジョゼ・モウリーニョで、プロ経験ゼロで世界最高の監督に上り詰めた、現在イタリアセリエAインテルの監督、ジョゼ・モウリーニョを取り上げた際、ブックマークのコメントの中で祖母井さんのことをご紹介頂いた方が何人かおられました。この度祖母井さんの著書「祖母力(うばぢから)」を拝読し、モウリーニョに負けず劣らずのすさまじい生き様に感銘を受け、是非取り上げてみたいと思い、今回のエントリーに至っております。

いじめられっこで、練習を苦にサッカー部を一週間で逃げ出してしまうような少年だった祖母井秀隆。そんな祖母井さんがなぜオシム招聘、仏グルノーブルでの成功など、数々の快挙を成し遂げることができたのか。祖母井秀隆の足跡を追ってみたいと思います。


いじめられっこがサッカーに目覚める

1951年、4人兄弟の長男として生まれた祖母井少年。小学校5年生のリレーでの失敗をきっかけにいじめられっこになってしまった祖母井少年は、中学の担任の先生に促され、初めてサッカーボールを蹴る機会を得ます。サッカーの魅力に取りつかれた祖母井少年は、サッカーの名門校、報徳学園に入学。しかし、周りはサッカーのエリートばかり。。少年は入部一週間でサッカー部から逃げ出してしまいます。。しかし、サッカーをあきらめきれなかった少年は、再入部を志願。もともと少年が持っていたガッツを買っていた当時の監督は、この申し出を快く受け入れてくれます。

高校3年生になり、ようやく試合に出してもらえるようになった祖母井少年。サッカーへの情熱は留まることを知りません。なんと少年は、「海外のサッカークラブでプレーしたい!」との思いから、あのイギリスの名門、マンチェスター・ユナイテッドに「練習生として参加させてほしい」という手紙と写真を送りつけます。親にも仲間にも笑われる祖母井少年。。残念ながらマンチェスターからは、「お手紙ありがとうございます。送って頂きました写真だけでは当クラブとしては判断しかねます。ご了承下さい」との返事。。この行動力を見ても、やはり祖母井少年はただのサッカー少年ではなかったんですね。

破天荒なドイツ留学

そして体育教師になるために大阪体育大学に入学後も、外国サッカーへの思いは募るばかり。当時唯一外国人コーチを配していた読売クラブ(現在のヴェルディ川崎)に、祖母井さんはまたもや手紙を送りつけ、今回は熱意が通じ、めでたく練習生に。その後クラブに帯同し、1974年の西ドイツワールドカップ観戦のために西ドイツ遠征を経験。ここで「ドイツに行きたい!」という思いが爆発します。。

お金が全然ない中、どうすればドイツに行けるか。。祖母井さんは思案の末、とんでもない行動にでます。当時祖母井さんは正式にサッカー選手として読売クラブに入団していましたが、クラブに違約金を支払い、半年で退団。。ドイツサッカー留学ツアーにドイツ語通訳として同行し、そのまま日本に帰国せず、ドイツに居ついてしまったのです。当時23歳。

ドイツ・ブレーメンに渡った祖母井さんは、アルバイトで何とか食いつなぎながら、4部リーグ所属のBTSノイシュタットに入団。一時期ドイツ語を学んでいたブレーメン大学でのマルクス・レーニン主義の講義の連続にノイローゼをなり、一時日本に帰国しましたが、その後ケルン体育大学に入学、本格的にコーチ学を学び始めます。当時26歳。

そんなドイツ生活の中、その後の祖母井さんの進路を決定づける出会いが生まれます。ドイツの町クラブ・BCエッフェレンでの中学生以下の子供たちのサッカー指導のチャンスを得ます。とはいえ、メンバーたった9人、これまでの試合はすべて10点差以上という弱小チーム。。しかし祖母井さんは子供たちにケルン体育大学で学んだコーチング手法を思う存分発揮、万年ビリのチームに勝利をもたらすと同時に、「選手の育成こそが僕の目標」と、紆余曲折を経てついに自分の在るべき場所を見つけたのです。当時27歳。

大体大2軍監督としての快挙、そして挫折

選手の育成に大きな喜びとやりがいを見つけた祖母井さんは、母校大阪体育大学(大体大)サッカー部コーチに就任します。しかし、旧態依然の精神論主導の指導法に猛反発。恩師の仲裁もあり、祖母井さんは2軍の監督を務めることで決着を見ます。ですが、この2軍監督としての快挙が、のちの祖母井さんの飛躍を決定づけるものとなるのです。

祖母井さんは「2軍は1軍の控え」との位置づけをゼロクリアにし、地域の社会人リーグに参戦すると宣言します。地域の社会人リーグというのは、勝ち上がっていけば、日本リーグ(現在のJリーグ・J1に相当)への昇格も夢ではないという存在。祖母井さんは大体大2軍を「体大けまり団」と命名、大体大1軍をよそに、日本リーグ2部(現在のJリーグ・J2に相当)昇格を目標にチームをスタートさせます。当時33歳。

祖母井さんはドイツ習得した最新のコーチング手法、戦術を大胆に取り入れ、また海外遠征なども積極的に行いながら、「体大けまり団」はどんどん力をつけていきます。そして2軍監督就任4年目、日本リーグ2部昇格トーナメントに進出、ここで勝てれば夢の2部昇格でしたが、プロ一歩手前の社会人チームに敗れ、トーナメント最下位に。。

それでもあきらめない「体大けまり団」。翌年の1991年、中心選手を1軍に奪われながらも残留組が奮起。再度昇格トーナメント進出を果たし、トーナメント最終戦をロスタイムでの同点ゴールにより、トーナメントを2位通過。ついに「体大けまり団」は大学のチームでは快挙の日本リーグ2部昇格を果たしたのです。当時39歳。

しかし祖母井さんと「体大けまり団」を待っていたのは信じられない結末でした。

日本リーグ2部での戦いに備え合宿に入っていた「体大けまり団」に、1軍監督から「リーグ昇格辞退」の要請がきます。理由は「経費がかかりすぎる」こと。。祖母井さんはそのような横槍もすべて想定し、事前に学内の根回しを済ますほか、すでにドイツのフィルムメーカーのスポンサーも獲得していたのです。それでも2部昇格は実現しませんでした。祖母井さんは責任を痛感し、大体大サッカー部から身を引くことを決心します。当時40歳。

しかし、この「体大けまり団」、そして祖母井秀隆の快挙を、サッカー界は見逃すことはありませんでした。

ジェフ市原 育成部長就任、そしてオシム招聘

コーチの職を辞し、大体大助教授として何か満たされない日々を過ごしていた祖母井さんに、大体大2軍監督としての快挙を高く評価した横浜フリューゲルズ、ガンバ大阪からトップチームのヘッドコーチのオファーが舞い込みます。しかしドイツBCエッフェレンでの子供の指導から始まった祖母井さんの「育成」という仕事への思いから、祖母井さんは、当時弱小チームであったジェフユナイテッド市原の「育成部長」のポジションを選択します。当時42歳。

しかし、夢と希望を抱き入団したジェフ市原は、3年単位でのクラブ上層部の入れ替わり、それに伴う運営方針の頻繁な変更、ずさんな管理の選手寮、門限も守られず、朝帰りはあたりまえ。。しかし祖母井さんは怯むことなく指導者の意識改革からスタート、選手の自己管理を徹底させるとともに、クラブの硬直した組織改革にまで乗り出します。

しかしいっこうに上昇しないチームの成績。。ここでも祖母井さんは「僕に150万円ください!」と高らかに宣言、自らが持つヨーロッパの人脈をフル活用し、ジェフ市原初の外国人コーチの招聘をスタートさせます。その後も祖母井さんは、ドイツケルン体育大学での盟友、ズデンコ・ベルデニックを監督に招聘するなど自らの人脈で優秀な外国人監督を招聘、ズンデコ就任2年目の2002年にはリーグ年間3位と過去最高の成績をおさめます。そしてそのズデンコの後任であるベングロシュの後任監督を探していた祖母井さんが招聘を目指したのが、あの名将イビツァ・オシムだったのです。

祖母井さんはオシムに毎日電話するも、オシムの返事はのらりくらり。。もう時間の猶予がない祖母井さんは監督就任の確証もないまま空路オーストリアグラーツに向かいます。そこで待っていたのは、祖母井さんの熱意に負けたオシムの笑顔でした。そして2003年1月17日の深夜、ついに祖母井さんとオシムは正式に契約を交わします。当時50歳。

オシム監督は就任してすぐに、オシムサッカーの代名詞「走って考えるサッカー」をものにするために、選手たちにすさまじい練習量を課します。就任初年度の選手たちの休暇はわずか5日。。しかしこの練習量は確実に成果となって表れ、オシムジェフ市原の監督に就任してからチームは一変。その成績は素晴らしいものでした。

  • 2003年 リーグ戦 前期3位、後期2位、総合4位
  • 2004年 リーグ戦 前期7位、後期2位、総合4位
  • 2005年 リーグ戦 総合4位、ナビスコカップ 優勝

そして、そのジェフでの実績を高く買われたオシムは、2006年7月21日、サッカー日本代表監督に就任するのです。当時祖母井さん、54歳。

55歳での渡仏、飽くなき挑戦心

ジェフで素晴らしい成果をあげた祖母井さんの意欲は安住を許しませんでした。そのチーム運営手腕を高く評価するJリーグのチームから多数の魅力あるオファーが届く中、祖母井さんは、当時フランス2部リーグで低迷中のクラブ、グルノーブル・フット・38のGM就任というイバラの道を選択します。当時55歳。

祖母井さんはGM就任から素早くチームの意識改革に着手。同時に数々の障害がある中、当時の監督と強化部長を解雇。選手も大幅な入れ替えを断行し、チームの一新を図ります。

そんなフランスで奮闘する祖母井さんに、日本にいるオシム監督の息子、アマル・オシムから信じられない電話が。「ヒデ。救急車を呼んでくれ。親父が倒れた。。。」日本での救急車の呼び方がわからないアマルは、一縷の望みで祖母井さんに電話をしたのです。祖母井さんはフランスから救急車を手配。オシム監督はなんとか一命を取り留めたのです。

その後祖母井さん率いる一変したグルノーブルはフランスリーグ2部で勝利を重ね、そして祖母井さん就任たった一年で、なんと45年ぶりの一部リーグ昇格を果たすのです。フランスでも認められた「世界の祖母井」誕生の瞬間でした。祖母井秀隆。現在56歳。

グルノーブル一部昇格を報じるスポニチの記事

祖母井さんからのメッセージ 〜「リスクを冒す」〜

一箇所に安住せず、いくつになっても挑戦することを止めない男、祖母井秀隆。祖母井さんは著書「祖母力」の中で、こんなメッセージを残しています。

日本のサッカーに欠けているのは、技術でも体力でもセンスでもなく、リスクを恐れず前に進む気持ちだと思うのです。(中略)ところが日本では、そういう人間があまりにも少なすぎます。リスクを冒して生きる人がもう少し増えなければ日本は変わらない、と僕は常々考えています。(「祖母力」 P178-179)

「リスクを冒す」。祖母井さんだけでなく、オシム前代表監督も良く使っていた言葉です。先日1月5日、オシム監督は母国オーストリアに帰国しましたが、300人のサポーターが訪れた成田空港で、オシムさんは貧血で真っ青になりながらも1時間サポーターに熱弁を振るい、「君たちはもっとリスクを冒せ」と熱く語ったそうです。

「リスクを冒す」。この言葉の意味をもう少し噛み砕いてみたいなと色々と思い巡らせている中、梅田望夫さんのエントリー直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 、そしてその中のこの言葉を思い出しました。

自分の直感を信じ(つまり自分を信じるということ)、自分が好きだと思える「正のエネルギー」が出る対象を大切にし、その対象を少しずつでも押し広げていく努力を徹底的にするべきだ。そういう行動の中から生まれる他者との出会いから、新しい経験を積んでいけば、自然に社会の中に出て行くことができる。

つまり、「リスクを冒す」とは、「自分の直感を信じて、前に進む」ということではないかと思ったんですね。

祖母井さんの生き様を見ても、「自分の直感を信じる」ということを痛感させる場面が多数あります。ドイツ旅行のツアーガイドに潜り込み、そのままドイツに居ついてしまった23歳、Jリーグのビッグネームのオファーを蹴り、「育成こそ我が行く道」とジェフの育成部長を選んだ42歳。。

昨今の厳しい経済環境、そんなときだからこそ、一人一人が自分の「直感」をもっと大切にし、「自分の直感を信じて、少しリスクを冒してみる」。新しい年を迎えるにあたり、祖母井さんから大きな勇気が詰まったメッセージを頂いたと、とても嬉しく思っております。

最後は祖母井さんの力強い一言で終わりたいと思います。祖母井さんがフランスで益々大暴れしてくれることを心よりお祈りしております。

なにもトライしていないのに「できない」と言ってはいけないのです。(「祖母力」P41)

祖母力 うばぢから オシムが心酔した男の行動哲学

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