三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな ~漫画家 手塚治虫~

ちょっとご無沙汰しておりました「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな」。梅田望夫さんの著書「ウェブ時代をゆく」で下記の文章に大変感銘を受けたことをきっかけにスタートしております。

「三十歳から四十五歳」という難しくも大切な時期を、キャリアに自覚的に過ごすことが重要である。(P194)

今回ですが、今年生誕80年を迎え、今だに数多くの研究書が執筆され続ける漫画界のみならず昭和の巨人。手塚治虫

今回手塚治虫を取り上げた理由。それは2つあります。

一つは、手塚治虫は、「三十歳から四十五歳という大切な時期」に、自分のそれまでの生き様を否定されるほどの大きな挫折を味わい、しかし留まることなく前に進み続けることによりこれを克服したことを知り、書き留めておきたいと思ったから。

もう一つは、先日手塚プロダクションから、3年以内に「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」などの手塚作品全作品の全編をインターネット上で無料配信するという発表があり、これを機にもっと手塚治虫について知りたいと思ったからであります。

17歳で漫画界にデビュー、瞬く間にヒット作を連発する早熟の天才、手塚治虫。しかし手塚治虫が生きた「三十歳から四十五歳」は、手塚自身を精神障害に陥れるほどの極めて苦しい日々でした。いかにしてこと苦境を乗り越え、そして復活したのか。その足跡を追ってみたいと思います。


多感な手塚少年は9歳で「手塚治虫」に

手塚治虫(本名は治)は昭和3年(1928年)11年3日、大阪府豊中市生まれ。手塚少年は小さいころころからマンガが大好き、兄弟そろって4コマ漫画を描くような少年時代を過ごします。学校では最初はいじめられっこでしたが、手塚少年の漫画の才能は段々と校内で知り渡るようになり、段々と一目置かれる存在になっていきます。

また昆虫採集に夢中になり、真剣に昆虫学者になることを夢見たことも。手塚少年は友達の石原実君とともに、ガリ版の「世界科学体系共同制作文庫」なる昆虫本を作成、50部刷って、クラスのみんなに配布します。このとき弱冠9歳。。当時すでにペンネーム「手塚治虫」を名乗り始めます。その後、北野中学に進学した後も、「原色甲蟲圖譜」「昆蟲つれづれ草」など続々と昆虫の私製本を作成していきます。

また同時に、手塚作マンガに大きな影響を与えるウォルト・ディズニーのアニメーション、そして宝塚歌劇にも「溺れる様に」のめり込んでいきます。

早熟な天才は漫画家と医学生のかけもち

手塚少年は16歳で大阪帝国大学付属医学専門部に入学。戦地に派遣される軍医の卵として勉強を重ねる中、大阪での大空襲、そして終戦を経験。この原体験が手塚マンガに根底に流れる思想「命の尊さ」の源流となります。

戦時中からマンガ雑誌に投稿していた手塚少年に、ついにその時がきます。毎日新聞社の子供向け新聞「小国民新聞(のちの毎日小学生新聞)」に「マーチャンの日記帳」の連載が決定、マンガ家デビューを果たします。この連載が3か月ほど続き、自身をつけた手塚はプロの漫画家として生きていくことを決心します。このとき、まだ17歳。。

そしてその翌年、手塚が参加していた「関西マンガクラブ」で酒井七馬という男と出会います。酒井が原作・構成、手塚治虫が作画を担当した「新宝島」が40万部を超える大ヒット。この作品は後のマンガ文化隆盛のきっかけとなる作品として語り継がれています。

この「新宝島」のヒットを皮切りに、手塚治虫の才能が爆発します。当時次々と単行本を描き下ろし、18歳から21歳の4年あまりの間に書き上げた作品はなんと34作品36冊。多い時には月に1冊というペース。。この執筆量の多さが手塚治虫の成長の原動力となります。量が質を生んでいくんですね。

そうそう。皆さん忘れてませんか?手塚治虫18歳。まだ医大生です。。信じられません。。

鉄腕アトムのヒット、そしてストーリー漫画の旗手に

漫画家と医大生の二足の草鞋で爆走する手塚は1951年、しっかりと大阪大学付属医学専門部を卒業。そのまま大阪附属病院でインターン生活に入ります。この時に生まれた作品「アトム大使」。これが手塚治虫の人生を大きく左右する一作となります。

アトム大使」の連載が始まったものの、話が複雑すぎていまひとつ人気が出ない状態が続きます。そんな中、編集者から、脇役であったロボット「アトム」というロボットに、喜びや怒り、悲しみなど人間的な感情を持たせ、「アトム大使」から「鉄腕アトム」へとリニューアルしたらどうかとアドバイスを受けます。このアドバイスに対し、手塚治虫は「わかりました」のひとことで応じます。このとき、22歳。

その後「鉄腕アトム」は大ヒット。1981年には書籍化された鉄腕アトムが累計1億冊を超えたと言われております。今累計何冊までいってるんでしょうか。。

そして1952年、23歳でしっかりと医師国家試験合格。そして東京に進出し、翌年にはあの伝説の「トキワ荘」に引っ越します。

このとき手塚は、「鉄腕アトム」の大ヒットにより、長者番付で画家の部2位に。1位はあの横山大観。そんな若きヒーローが4畳半しかない、階段ギシギシのオンボロアパートに住んでいたという事実。当時の新聞記者は「こんなところに百万長者がいるのか」とびっくり仰天したというエピソードが残っています。。

手塚治虫はその後もその尽きることのない創作意欲をフルに発揮し、尋常じゃない仕事量をこなし、ストレスと疲労の極限に達しながらも良質な作品を生み続けます。

手塚治虫を襲った3つの「壁」

順風満帆に見える手塚治虫の漫画家人生。そんな手塚を試すかのように、神は手塚に3つの「壁」を与えたます。

一つ目は「悪書追放運動」。1954~55年、子供マンガの通俗性への非難の声が高まり、手塚自身もPTAの集まりに編集者とともに参考人として呼び出され、糾弾されるという経験をします。「子供に命の尊さを伝えたい」と心より思い続けてきた手塚の作品が「悪書」として糾弾される事実。手塚にとってとてもショックな出来事でありました。

二つ目は「劇画の台頭」。悪書追放運動が落ち着いた1956年、よりリアルな画風を武器に社会の闇をストレートに描く「劇画」が人気を博すようになります。子供向けのやわらかいタッチの手塚マンガは「劇画」の対極に位置する形に。。そして読者からは「手塚はもう古い」「手塚は終わった」との辛辣な批判を受けることに。手塚は当時の自分をこのように書き記しています。

劇画が貸本屋に溢れ出し、ぼくの家の助手までが二十冊も三十冊も劇画を借りてくるようになったとあって、ぼくも心中おだやかでない。ついにぼくはノイローゼの極みに達し、ある日、二階から階段を転げ落ちた。マンネリだ、マンネリだと読者の手紙が殺到し、なにを書いても評判が悪く、しかも助手は劇画に熱中する。もう世の中はお終いと思って、千葉医大の精神病院に精神鑑定をしてもらいに出かけた。(「ぼくはマンガ家」毎日新聞社より)

しかし手塚はもがき苦しみながらも、前に進むことを止めませんでした。

手塚は劇画を貪欲に取り入れた作品を書き続けながら、1961年には奈良県立医科大学にて医学博士号を取得。そして同年アニメーション作製を目的とした「手塚治虫プロダクション動画部(後の虫プロダクション)」を設立。念願であったアニメーション作製に進出します。このとき32歳。

そして国産初のテレビアニメ「鉄腕アトム」を世に送り出し、平均視聴率が30%を超える大ヒットに。その後「鉄腕アトム」はイギリス、フランス、西ドイツ、オーストラリア、台湾、香港、フィリピンなど世界各国で放映されるようになります。

劇画に押され「自己脱皮」を迫られた手塚治虫。ようやくその劇画調の作品が実を結び始め、下記のグラフに見られるように、一時期落ち込んだ新作発表数を序々に回復させていきます。

完全復活か、手塚治虫。しかしここで3つ目の「壁」が手塚を襲うのです。。

手塚が満を持して出版した大人向け本格雑誌「COM」。これが売れず、赤字が膨らむ結果に。また虫プロダクションは総勢500人を超える大所帯に。この給料をねん出するためにアニメを作り、そしてそれが赤字を生むという自転車操業状態に。。

そして昭和48年(1973年)、書籍関係を統括する虫プロ商事・虫プロダクションともに倒産。。10億円の私財を投じていた手塚は多額の債務を背負いこむことに。。この時、手塚は「マンガは女房、アニメーションは手のかかる恋人」という言葉を残しております。このとき44歳。

それでも止まらない、止まれない手塚治虫

それでも手塚治虫はその尽きることのない創作意欲に突き動かされ、前に進もうとします。

倒産で債務を背負った手塚治虫。「もうこれが最後」と自ら出版社に企画を持ち込みます。多くの出版社が提案を断る中、秋田書店が手塚に、

  • 毎回読み切り
  • 劇画のような画
  • 人気が出なければ4回で打ち切り

この3つの厳しい条件をつきつけます。手塚はこの条件を了承。そして第1回は目次にすら掲載されない状態でこの作品はスタートします。

その作品の名は「ブラックジャック」。

手塚治虫は自らの漫画家としての「最後の死に場」に自分の原点である「医療」の場を選択。虫プロダクション倒産と同じ1973年11月、手塚は「ブラックジャック」の連載をスタートさせます。

数回の読み切りで終わるはずの「ブラックジャック」は想定外の人気マンガ。その後5年にわたる長期連載の道を歩むこととなるのです。

ブラックジャック」で完全復活を果たした手塚治虫は、その後全400巻という前代未聞の個人作品集「手塚治虫漫画全集」をスタート。しかも手塚は「生前に出た本は目の前の読者に向けて出す」という手塚の意志の元、常に書き換えを行っていたといいます。また歴史大作にも進出。「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」が好評を博し、優れた歴史作品を次々と生み出していきます。このとき、54歳。

しかし長年の肉体的・精神的酷使は確実に手塚の身体を確実に蝕んでいました。体の不調を訴えながらも、周囲の忠告に反し入院せずマンガを描き続けていた手塚は病に倒れ、緊急入院。胃がんと診断されます。数回の手術が行われましたが、回復は叶わず、1989年2月9日、帰らぬ人となります。享年60歳。

病院に一式道具を持ち込み、漫画を描き続けていた手塚治虫。意識が朦朧とする中で手塚が奥様に残した最後の言葉、それは「頼むから、頼むから仕事をさせてくれ」でした。
そしてこの時、埼玉県新座市に手塚念願の漫画とアニメーションの総合製作スタジオが完成。手塚の帰りを待っているところでありました。。

手塚治虫のメッセージ~「アーチストになるな」~

手塚治虫の壮絶な生き様に私たちは何を学ぶことができるのか。手塚は劇画台頭により「自己脱皮」を求められた苦悩の時代に、この言葉を述べています。

アーチストになるな、アルチザン(職人)になれ(「ミネルヴァ日本評伝選 手塚治虫」P3)

では、「アーチスト」と「アルチザン」の違いは何なのか。

手塚治虫は、漫画を通じて「将来ある子供たちに、命の尊さを伝えるんだ」という明確な目的を持っていました。手塚がマンガを芸術視していた「アーチスト時代」。それは自分のマンガを「絶対視」し、自らの目的を達成する手段は絶対的存在である自分なんだと強く信じていた時代だと思います。

その手塚を吹き飛ばすような「劇画」という暴風雨。この暴風雨の中、手塚は冷徹に自分がマンガを書く目的は何なのかを問い続け、そして「自分はこれでいいのか」と自分を客観視する術を覚えます。そして変わることへの恐怖を振り払い、劇画という得体の知れないものを併せ呑み、自らを「転向」していったのです。

つまり、「アーチスト」とは自分を絶えず「絶対視」する。「アルチザン」とは絶えず自分を「客観視」している存在ではないかと。

  • 自分の中にブレない軸となる「目的」を持ち続けながら、
  • 自分を絶えず「客観視」し続け、
  • 目的を達成するためには「自分を変える」ことを恐れない。

これが手塚治虫の生き様から学ぶ「アルチザン」ではないかと私は思いました。今回の私の学びのポイントであります。

是非下記作品で手塚治虫本当の姿に触れてみて頂ければと思います。何かを感じて頂けると思います。

手塚治虫―アーチストになるな (ミネルヴァ日本評伝選)

手塚治虫―アーチストになるな (ミネルヴァ日本評伝選)

(Youtube)手塚治虫の生涯 Part1
(Youtube)手塚治虫の生涯 Part2
(Youtube)手塚治虫の生涯 Part3
(Youtube)手塚治虫の生涯 Part4


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