三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな 〜アンディ・グローブ〜

ちょっとご無沙汰しておりました「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな」。梅田望夫さんの著書「ウェブ時代をゆく」で下記の文章に大変感銘を受けたことをきっかけにスタートしております。

「三十歳から四十五歳」という難しくも大切な時期を、キャリアに自覚的に過ごすことが重要である。(P194)

だとしたら、具体的にどうすれば自覚的に過ごすことができるのかと考えている中で出会ったのが、梅田望夫さん提言の「ロールモデル思考法」であります。

「好きなこと」「向いたこと」は何か漠然と自分に向けて問い続けてもすぐに煮詰まってしまう。頭の中のもやもやは容易に晴れない。「ロールモデル思考法」とは、その答えを外界に求める。直感を信じることから始まる。外界の膨大な情報に身をさらし、直感で「ロールモデル(お手本)」を選び続ける。たった一人の人物をロールモデルとして選び盲信するのではなく、「ある人の生き方のある部分」「ある仕事に流れるこんな時間」「誰かの時間の使い方」「誰かの生活の場面」など、人生のあらゆる局面に関するたくさんの情報から、自分と波長の合うロールモデルを丁寧に収集するのだ。

今回ですが、最近気合の入ったこの男の伝記が発売され、気になっていてこの一か月あたり色々調べておりました。梅田さんも「ロールモデル」としていつも挙げられている男。その名は半導体メーカー・インテル創業者、アンディ・グローブ

1968年にゴードン・ムーアロバート・ノイスとともにインテルを創業し、その後COO、CEOを歴任。シリコンバレーの小さな半導体ベンチャーに過ぎなかったインテルを売上3兆円超の世界一の半導体メーカーに育て上げた立役者として、スティーブ・ジョブズも、エリック・シュミットも、マイケル・デルも師と仰ぐシリコンバレーの巨人です。

私がなぜアンディ・グローブに興味を持ったか。アンディはアメリカ人ではなく、ユダヤハンガリー人であり、ナチス他によるユダヤ人迫害から逃れるためにアメリカに亡命し、そこから今の成功に至ったということを知ったからであります。

転職が一般的なシリコンバレーにおいて、自らが創業した会社に30年以上も在籍し続け、様々な伝説とともにインテルを超優良企業に育てたアンディ・グローブ。その素晴らしい経歴に至るまでの三十歳から四十五歳の道のりは、極めて苦しく険しいものでした。今回はアンディ・グローブのその足跡に学びたいと思います。

数字に見るアンディ・グローブが成し遂げたことの「凄さ」

まずは売上高と営業利益の推移が下記になります。

アンディがCOOに就任した1979年からCEOを退任する1998年までの20年間で、インテルの売上高は668百万ドルから26,300百万ドルへと約38倍に、純利益高は77.8百万ドルから6,068百万ドルへと約78倍に。。

この間売上高純利益率が15%から20%の高水準で推移しており、結果純利益の伸び率は売上の伸び率の倍以上になっている事実が、アンディ・グローブの経営者としての「凄味」を感じさせます。。

アンディ・グローブの足跡 〜いかに大切な三十歳から四十五歳を過ごしたか〜


ナチスの迫害を受けた幼少時代、そしてアメリカに亡命

1936年9月にハンガリーで生まれたアンディ・グローブ。そのころのハンガリーは動乱の真っただ中。ヒトラー率いるドイツ軍が周辺諸国を手に入れようと武力侵攻を繰り返し、ハンガリーもその標的になっておりました。

また、加えてアンディ達を苦しめたのは、ヨーロッパ全域に広がっていた「反ユダヤ」思想。ユダヤハンガリー人であったグローブ一家は、ドイツ軍の武力侵攻と、ユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)の魔の手から逃れ、必死にハンガリーで生き延びるようとする日々でした。

またアンディはそんな中「しょうこう熱」を患い、生死をさまよった結果、難聴となってしまったのです。このようにアンディは数々の「トラウマ」を自分の中に抱えながら幼少時代を過ごすことになります。

そんな厳しい環境の中でも勉学に励み、素晴らしい成績を残していたアンディ。1955年にブタペスト大学に入学したものの、ブタペストではハンガリー動乱が勃発し、大学は閉鎖に。グローブ一家はこのままでは生きていけないと悟り、アンディをオーストリアに逃げます。そしてアンディはウィーンの国際救済委員会(IRC)に掛け合い、一旦は「No」を突きつけられるものの、鉄の意思でアメリカ亡命嘆願、IRC職員はアンディのあまりの説得力に圧倒され、アメリカ行きを認めます。当時アンディ20歳。。

アメリカに学び、そして半導体の世界に

やっとの思いでアメリカに辿り着いたアンディは、仕事に就いて、早く経済的に自立し、両親をハンガリーからアメリカに呼びたいと考えていましたが、勉強したい熱意は変わらず、公立大学で学費がかからないニューヨーク市立大学の化学エンジニアリング学部に入学。そして在学中の1958年、ドイツ軍の侵攻から逃れ、オーストリアから亡命してきた女性、エバ・カスタンと出会い、学生結婚。そして1959年に大学を首席で卒業します。当時23歳。

アンディは早く両親をアメリカに呼ぶために卒業後は就職を考えていましたが、やはり学業への興味が盛り上がり、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に進学。ここでもアンディは勉学に励み、素晴らしい論文を数々書き上げ、高い評価を得ます。

そんなアンディには多くの企業から就職のオファーが。その中でも、後に共にインテルを創業することとなる、半導体業界にて「ムーアの法則」で知られる巨人ゴードン・ムーアから直々に入社を強く要請され、フェアチャイルド・セミコンダクターへの入社を決心します。当時27歳。

そして仕事を得たアンディは、27歳となった1962年に、ついに両親をハンガリーからアメリカ・シリコンバレーに迎えることができたのです。

インテルの創業、そして苦悩の日々

フェアチャイルド時代、まさに熱に浮かされたかのように東奔西走していたアンディ。しかしフェアチャイルドの業績は思わしくなく、また幹部の権力闘争などもあり、ゴードン・ムーアが退社し自らに会社を起業することを決心。そしてフェアチャイルドにて技術面で異彩を放っていた偉人ロバート・ノイスも参加するとのこと。この話を聞きアンディもこの起業への参加を決意。こうしてインテルが産声を上げたのです。当時アンディ32歳。

しかしインテル船出は波乱の連続。。1968年に最初の製品である64ビットSRAM「3101」を発表、1969年には最初のMOSチップである「1101」を発表するも、市場で全く相手にされない始末。。そして満を持して発売した一キロビットDRAM「1103」も、欠陥問題発生で大苦戦。しかしアンディが後に「地獄でしたね」と語るぐらいの苦しい時期を経て、なんとか「1103」はヒット。インテルに多大な利益をもたらします。そして1971年には初の黒字化を達成、株式公開を達成します。当時アンディ35歳。

偶然の産物であったマイクロプロセッサの登場

DRAM事業をメインとしてそのビジネスを拡大してきたインテル。そんな中、インテルの将来を担う新製品が「偶然の産物」として生まれます。それが今パソコン市場で業界標準となっているペンティアムプロセッサなどの「マイクロプロセッサ」

このマイクロプロセッサが生まれたきっかけは、なんと1969年に日本企業のビジコンという会社が、インテルに電卓用に数種類の半導体からなるチップセットを設計・製造してほしいという依頼をしたことにあります。このときビジコンは15個程度のチップセットを考えていたのですが、テッド・ホフという天才エンジニアがこれを1チップ化した4ビットマイクロプロセッサ「4004」を開発。これがいまのペンティアムの源流になります。

その後、1972年に8ビットマイクロプロセッサ「8080」を、1978年には16ビットマイコン「8086」を発売。1979年には8086の廉価版「8088」を発売するなど、DRAM主体のインテルの商品群の中でも序々にその存在感を増していきます。

「8080」開発当初は、マイクロプロセッサをどのような用途で使うかをインテル自身がまだ見えていないところがありました。しかしアンディ・グローブだけは違います。アンディはすでに1978年の自分の日誌の中でマイクロプロセッサの用途として「パソコンこそ金脈だ!」と記しており、まさに優れた先見の明があったと言えます。当時アンディ42歳。

そんな夢の製品が生まれ、育ちつつある1979年、アンディは43歳にしてインテルCOOに就任。しかし、アンディを待っていたのはバラ色の世界ではなかったのです。

DRAM撤退、マイクロプロセッサへの集中、そして更なる成長へ

インテルの創業事業であったDRAM事業。しかし1970年代後半から80年代にかけて、東芝、日立、NECなどの日本企業がその優れた製造技術を武器にDRAMの低価格攻勢でインテルの牙城を攻め立てるようになります。これにインテルも新製品開発等で対応するも大苦戦。1974年にはシェア82.9%を獲得していましたが、1984年にはなんと1.3%まで落ち込む大惨敗を喫すこととなったのです。

このような極めて厳しい状況の中、アンディは社内の反対、権力闘争を乗り越え、インテル創業事業であるDRAM事業からの撤退を決意し、実行。そして1986年には70年代を通じ初の赤字決算、8工場を閉鎖、30%の人員削減を断行します。当時アンディ50歳。

そして1987年、アンディは51歳にてインテルCEOに就任します。

これを機に、インテルはマイクロプロセッサへの集中を進めたのですが、アンディの逸話の一つとして語られるのがCISC(複数命令セットコンピューティング)」と「RISC(縮小命令セットコンピューティング)」の二者択一を迫られたアンディの決断のお話。。

インテルCISC中心で事業展開してきたのですが、サンマイクロシステムズ他多数の企業が、CISCよりシンプルで効率の良いRISCを採用、マイクロプロセッサ業界スタンダードがRISCとなるのではないかと言われた時代がありました。そんな中、インテルRISCを脅威と感じ、インテル内でもRISC対応マイクロプロセッサを開発、一時期CISCRISC両方が混在する状況となってしまったのです。これにより、アンディ曰く「あと一歩で会社を破滅させるところであった」と語るほどインテル社内は大混乱に。

この混乱状態が続きましたが、アンディは逃げることなく、事態の修復を試みます。1991年に社内のベクトルを統一するべくCISC一本で行く」ことを決断。この決断がそのあと続くインテルの繁栄を決定づけた意思決定であったと高く評価され、アンディの経営者としての名声を確固たるものとしたのです。当時アンディ55歳。

その後インテルは本格的な「ウィンテル」時代の恩恵を受け大躍進。売上高3兆円を超える世界最大の半導体メーカーへと成長。アンディ自身も1997年、61歳にして「タイム」紙のマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれるなど、シリコンバレーを征した巨人として、今も数多くの人の「ロールモデル」として尊敬を集めています。

最後に 〜心の中にカサンドラを持て〜

アンディ・グローブは、「CISCRISC」の決断を振り返り、「組織の中に、変化の予兆を察知できるカサンドラ(凶事の予言者)を持て」と言っています。カサンドラとは、迫りくる変化に誰よりも早く気づき、早い段階で警告を発する存在。これをを社内、そして自分の中にも持ち続けて疾走したアンディのインテル30年でありました。

このアンディの生き様を見て、梅田望夫さんは著書「ウェブ時代をゆく」でこんなことをおっしゃっています。

大小を問わず組織に勤めるすべての人たちに、危機を認識する最大の助けとなるカサンドラを自らの内部に持つべきだ、そう私は提言したい。(P194)

同じ組織に同じ空気を吸いながら何十年も過ごすことにより起こる自らのガラパゴス化ガラパゴス化により、客観的な視点で自社を見ることができず、適切な意思決定ができない。アンディは「カサンドラ」を持つことにより、こういった状況に陥るのを防ぎ、30年勤め上げたインテルにおいても、きわめて冷静な視点で適切かつ大胆な意思決定ができた。

アンディの生きざまに触れ、改めて「どうすれば自分の中にカサンドラを持つことができるのだろうか」を考えさせられました。そう簡単に結論でないですけどね。

最後に、アンディ・グローブの名言である下記の言葉で締めたいと思います。現在アンディ・グローブパーキンソン病と診断され、懸命に病と闘っているとのこと。一日も早い回復をお祈り申し上げます。

「Only The Paranoid Survive(パラノイア<病的な心配症>のみが生き残る)」


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