三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな 〜ジョゼ・モウリーニョ 1 〜

長らくご無沙汰しておりました「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな」。梅田望夫さんの著書「ウェブ時代をゆく」で下記の文章に大変感銘を受けたことをきっかけにスタートしております。

「三十歳から四十五歳」という難しくも大切な時期を、キャリアに自覚的に過ごすことが重要である。(P194)

だとしたら、具体的にどうすれば自覚的に過ごすことができるのかと考えている中で出会ったのが、梅田望夫さん提言の「ロールモデル思考法」であります。

「好きなこと」「向いたこと」は何か漠然と自分に向けて問い続けてもすぐに煮詰まってしまう。頭の中のもやもやは容易に晴れない。「ロールモデル思考法」とは、その答えを外界に求める。直感を信じることから始まる。外界の膨大な情報に身をさらし、直感で「ロールモデル(お手本)」を選び続ける。たった一人の人物をロールモデルとして選び盲信するのではなく、「ある人の生き方のある部分」「ある仕事に流れるこんな時間」「誰かの時間の使い方」「誰かの生活の場面」など、人生のあらゆる局面に関するたくさんの情報から、自分と波長の合うロールモデルを丁寧に収集するのだ。

今回は、その存在を知ってはいたのですが、改めてそのすごさに触れ、感動し、ここ一ヶ月ほど調べていた人物です。
その男の名はジョゼ・モウリーニョポルトガル

サッカーフアンであれば知らぬものはいない超有名人。若干46歳にして、世界最高のサッカー監督の一人としての名声を確固たるものとし、その年棒は約14億円で世界一とも言われております。そして2008-2009シーズンでは、イタリアの名門インテルの指揮を取ることが決定しております。

ではなぜ私がモウリーニョに強い関心を持ったか。モウリーニョはプロサッカー選手としての経験が全くないのです。一度もプロとしてプレーをしたことがありません。なぜプロサッカー選手として大成しなかった、いや、スタートラインにすら立てなかったモウリーニョが世界最高のサッカー監督となることができたか。私はこの理由を知りたかったのです。

マイナスからのスタートで監督の座を獲得し、監督就任からわずか4年で欧州サッカーシーンで最も権威のある大会 UEFAチャンピオンズリーグを制し、今もなお「世界最高の監督になる」という目標に向けて邁進し続けるジョゼ・モウリーニョの足跡を追いたいと思います。


ジョゼ・モウリーニョの足跡 〜いかに大切な三十歳から四十五歳を過ごしたか〜

プロサッカー選手の夢の断念、体育教師に

ジョゼ・モウリーニョは元ポルトガル代表ゴールキーパーであったフェリックス・モウリーニョの子として生まれます。当然のようにジョゼ少年もプロサッカー選手を目指します。がしかし、ジョゼは早くも現実の厳しさに直面。プロサッカー選手になれない事実を受け入れはじめ、「世界最高のサッカーコーチを目指す」と宣言します。この時、若干おませな15歳。

そして父はそんなジョゼを励まし、自らが指揮を取るポルトガル2部のチームのアシスタントで働く機会を与えます。そしてジョゼはスパイとして相手チームの弱点などの情報収集を行うなど、早くもサッカー監督の仕事とは何たるかを自然と身に付けていきます。

しかし、父フェリックスがサッカー監督の仕事を失い、同時にジョゼもサッカーを現場で学ぶ機会を失います。そして猛烈に頭が良いわけではなかったジョゼは、大学進学を目指すものの、数学の点数が悪かったおかげで一浪し、何とかリスボンの上級教育大学に入学。地元の小学校、中学校で3年間体育を教えることとなります。この時23歳。この時「世界最高の監督」の扉は全くその気配すらなかったのです。

下積み時代、そしてフィジカルコーチに

しかしモウリーニョは、体育教師を勤めながら、地元ヴィクトリア・セトゥバルのU16のチームを担当し、「世界一のコーチ」への道を模索していました。25歳の時、学校の夏期休暇を利用してスコットランドに渡り、UEFAコーチングライセンスの半分の課程を取得しています。25歳で半分を取得してしまうことは極めて異例。これを契機に、当時所属していたヴィクトリア・セトゥバルでの彼の担当はU16からU18まで拡大、ここでのモウリーニョの指導が当時のヴィクトリア・セトゥバルの監督、後のモウリーニョの恩師をなるマニュアル・フェルナンデスの目に留まります。そして、フェルナンデスが中堅エストレラ・ダ・アマドラに移籍する際、モウリーニョをフィジカルコーチとして連れて行くのです。モウリーニョはここではじめて本当のプロのサッカーを経験することとなります。この時27歳。

「語学」を武器に名門クラブの「通訳」に、そしてアシスタントコーチに

しかし、エストレラはフェルナンドとモウリーニョを一年で解雇。二人は仕事を失います。そんなどん底の中、モウリーニョは恩師フェルナンドに助けられます。フェルナンドはかつて所属した名門スポルティングのアシスタント・コーチに就任することが決まり、その時の監督が元イングランド代表監督の名将ボビー・ロブソン。フェルナンドはポルトガル語が話せないボビーの通訳としてクラブにモウリーニョを強く推薦し、採用されたのです。この時、30歳。ここからモウリーニョの「世界一の高給取りの通訳」への道がスタートします。

通訳としての力はもちろんのこと、ボビーはモウリーニョが作成する相手チームの分析レポートの素晴らしさに感動。モウリーニョのサッカーセンスに魅了されたボビー・ロブソンは、モウリーニョを決して手放そうとしませんでした。ボビーがその後名門FCポルトに移籍した際もモウリーニョも通訳として一緒に移籍。次にボビーが世界的名門FCバルセロナに移籍した際も通訳として一緒に移籍します。この時は「モウリーニョを通訳として採用する」ことを監督就任の唯一の条件としています。そしてモウリーニョの活躍は通訳の範疇を超え、次第にチームに欠かせない存在となります。そしてついにFCバルセロナのアシスタント・コーチに就任します。この時、35歳。

ついに監督の座を獲得、そして「世界最高の監督」に

FCバルセロナで数々の経験を積んだモウリーニョについに監督のオファーが来ます。ポルトガルの名門ベンフィカから。しかし、契約期間は6ヶ月と決して良い条件とは言えません。すでに名門FCバルセロナのアシスタント・コーチとして地位と高級を獲得していた身。周りはベンフィカ行きに反対します。しかしモウリーニョは自分を信じ、「ついに時が来たぞ」と、監督への道を進むことを決意します。しかし、良い成績を収めたにもかかわらず、クラブ内の政治問題により、たった3ヶ月で解雇されてしまいます。この時38歳。

しかし、この時、モウリーニョの世界最高の監督への扉はすでに開かれていたのです。

ベンフィカ退団後、モウリーニョは中堅ウニオン・レイリアの監督に就任。クラブ最高の成績であるリーグ4位の成績を収めました。そして、モウリーニョポルトガルの名門でありながら、当時最悪のチーム状態であったFCポルトの監督に就任。監督就任時にモウリーニョはこう宣言しました。「来年、私たちはリーグ優勝を果たすだろう。」そしてモウリーニョは短期間でチームを建て直し、公約どおりリーグ優勝。更にポルトガルカップUEFAカップも制し、3冠を達成。この時、40歳。

翌年も快進撃は止まりません。モウリーニョ率いるFCポルトは圧倒的な強さでポルトガルリーグを連覇。そして欧州クラブ最高峰のカップ戦、UEFAチャンピオンズリーグを制し、事実上欧州最高の監督となったのです。この時、41歳。監督就任からたった4年での制覇です。

そして海外のビッグクラブからのオファーが殺到する中、モウリーニョは英の名門チェルシーの監督に就任。就任するやいなやバラバラだったチームを一つに纏め上げ、チェルシーを50年ぶりのプレミアリーグ優勝に導きます。この時、42歳。

そして2005-2006年もプレミアリーグを独走でプレミアリーグ連覇。2006-2007年はプレミアリーグ2位に終わるも、FAカップリーグカップの2冠達成。「世界最高の監督」の地位を確固たるものとし、「世界最高のコーチを目指す」と宣言した15歳の頃の夢をはるかに超えて見事に達成したのです。

そして2008年8月からスタートするシーズンでは、イタリアの名門インテルの指揮を取ることが決まっており、モウリーニョの新しい挑戦がスタートします。


壮絶なジョゼ・モウリーニョの足跡、生き様に触れたとき、私は大きな衝撃を受け、そして大きな感動を覚えました。モウリーニョの生き様は、サッカーという枠を超え、とてつもなく大きなものを教えてくれるように思ってます。

次のエントリーで、私たちはモウリーニョの足跡から何を学ぶことができるか、これを考えてみたいと思います。

「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな 〜ジョゼ・モウリーニョ 2〜」をアップしました。私なりにモウリーニョの足跡から学べることを書いてみました。ぜひご覧下さい。

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