三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな 〜任天堂社長 岩田聡氏〜

ちょっとご無沙汰しておりました「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな」。梅田望夫さんの著書「ウェブ時代をゆく」で下記の文章に大変感銘を受けたことをきっかけにスタートしております。

「三十歳から四十五歳」という難しくも大切な時期を、キャリアに自覚的に過ごすことが重要である。(P194)

今回ですが、梅田望夫さんのウェブブック「生きるための水が湧くような思考」の中で、若者たちの新しい「ロールモデル」(お手本)として見つめ直す必要がある。」と記述されている人物。その名は任天堂代表取締役社長 岩田聡

当時ソニープレイステーション2」の後塵を拝していた任天堂代表取締役社長に就任後、ニンテンドーDS/DS LiteWiiを世に送り出し、瞬く間に任天堂を首位の座に返り咲かせた立役者、岩田聡。現在のその華麗な実績に至るまでの30歳から45歳の道のりは、極めて苦しく険しいものでした。今回は岩田聡さんのその足跡に学びたいと思います。

数字に見る岩田聡が成し遂げたことの「凄さ」

まずは売上高と営業利益の推移が下記になります。

岩田さん社長就任の2002年から2008年までの7年間で、任天堂の売上は5,548億円から1兆6,724億円へと約3倍に、営業利益は1,191億円から4,872億円へと約4倍にと急拡大。特に売上を3倍に拡大しながら営業利益をそれ以上の4倍に拡大させている点に、「経営者 岩田聡」の凄さを痛感します。

次は株価の推移。これまたすごい。。

社長就任から2008年までの7年間で、株価は17,600円から49,200円へと2.8倍に(同時期の日経平均株価は11,901円から12,666円で1.06倍)。2008年7月現在の任天堂時価総額は7兆8,768億円で、トヨタ三菱UFJフィナンシャルグループ、日本電信電話(NTT)に次ぐ4位。5位以下はNTTドコモキヤノン、ホンダ、三井住友フィナンシャルグループみずほフィナンシャルグループ松下電器産業。。。名実ともに任天堂は日本を代表する企業へと躍進しています。

岩田聡の足跡 〜いかに大切な三十歳から四十五歳を過ごしたか〜


札幌に天才プログラマー現る

北海道札幌市で高校生活を送っていた岩田少年は、彼を侵食忘れるほど夢中にさせるものに出会います。それは米ヒューレット・パッカード製のプログラミングができる電卓。これはアポロ計画の宇宙飛行士が宇宙に持ち込んだ高機能電卓で、高額ながら岩田少年はこれを手に入れます(どうやって手に入れたかはわかりませんでした。。)

当時はパソコンも、インターネットもない時代。そんな中。岩田少年は情報が限られる中電卓で「ゲーム」を作ることにのめりこみ、友達にそのゲームを見せては一緒に楽しむといった経験を経て、「ゲームづくり」にどんどんはまっていきます。

しかしここで終わらないのが岩田少年。岩田少年は自分で作ったゲームを日本のヒューレット・パッカード社の代理店に送りつけます。それを受け取った代理店は「札幌にとんでもない高校生がいる」とびっくり仰天。。山のような技術資料を岩田少年に送りつけたという逸話が残っております。このとき、まだ17歳。。。

偶然の出会いからHAL研究所

岩田少年は東京工業大学に進学、情報工学を専攻します。プログラミングを勉強するのですが、札幌で友達に自分の作ったゲームを見せては喜ばすというわくわく感がない日々。。そんな岩田君の足は、池袋の西武百貨店のパソコンコーナーに向かっていました。そこは、プログラミング好きが自分の腕を披露しあい、自分の腕を磨いていた「プログラミング道場」のような場所だったのです。

ここでも持てるプロミング能力を存分に発揮し、一目置かれる存在となっていた岩田君。そしてそのお店でアルバイトをしていた店員が岩田君に声をかけます。

「こんど会社を立ち上げるんだ。その会社でプログラマーやらないか。」

この会社が秋葉原のマンションの一室にあったHAL研究所。岩田君はバイトという名の「HAL研唯一のプログラマー」として会社に居座るようになります。そして寝食を忘れてプログラミングの日々。

そして無事に大学を4年で卒業した岩田君は、大きな迷いもなく当時社員数5名だったHAL研究所に、開発担当社員第一号として入社します。当時22歳。

HAL研究所事実上倒産、32歳にして企業再建責任者に

岩田聡HAL研究所に入社した一年後の1983年。岩田聡は衝撃的なものに出会います。それが彼の将来を決定づけるゲーム機、任天堂ファミリーコンピュータファミコン。「こんなものが15,000円か。これは世の中が変わる気がする。どうしてもこれに関わりたい」と強く思った岩田聡は、任天堂の京都本社を訪れ、ゲームソフトの受託開発を請願。請願は見事成就し、「ピンボール」「ゴルフ」といったファミコン初期の多くのゲームソフトの開発に関わります。当時24歳。

HAL研究所任天堂向けゲームソフト開発を中心にその規模を拡大し、社員数は90名近くに。そして山梨にその拠点を移転した1990年、岩田聡は取締役開発部長に就任します。当時30歳。

しかし、極めて順調なゲーム開発者人生を送っていた岩田聡に、最初の試練が立ちはだかります。

1992年、HAL研究所はゲームソフトの売上不振と山梨県での不動産投資失敗を原因に、多額の負債を抱え、和議(現在の民事再生法)を申請。HAL研究所は事実上の倒産となります。

倒産したHAL研究所の再建支援に乗り出したのは任天堂でした。そして当時任天堂社長の山内溥氏が再建支援の条件として提示したのが岩田聡を社長にすること」。引くに引けない岩田聡「もし逃げたら一生後悔する」と決断、代表取締役に就任します。当時32歳。

HAL研究所再建に奔走、6年で借金完済

岩田聡はまず「事業の選択と集中」に取りかかります。当時はパソコン関連製品事業とゲームソフト事業の2つの事業を展開していましたが、パソコン関連製品事業を分割し(2002年に解散)、HAL研はゲームソフト事業一本に絞り、経営の立て直しを目指します。

また、岩田聡は社員全員との面談を実施。長い時には3時間を超える面談もあったという。この面談を通じて、岩田聡は自分の経営者としての判断の尺度を模索すると同時に、自分の考えを社員に直接語りかけることにより、沈みがちだった従業員のモチベーションを維持・向上させることに尽力しました。これを再生期間中ずっと継続します。

この必死の努力は実を結び、「星のカービィー」をはじめ、「MOTHER2」「大乱闘スマッシュブラザーズ」などが大ヒット。HAL研究所は15億円の負債を6年で完済、1999年に和議手続きを完了させ、見事再建を果たします。このとき39歳。。

任天堂に入社もソニープレイステーション」を追う日々

見事HAL研究所を再建した岩田聡は、当時の任天堂社長の山内溥氏の熱烈なラブコールを受け、取締役経営企画室長として任天堂に入社。しかし、当時の任天堂どん底の状態でありました。。任天堂は1994年発売のソニープレイステーション」に首位を座を明け渡し、また1999年発売の「プレイステーション2」によりその差は拡大。任天堂岩田聡氏入社後の2001年に「ニンテンドーゲームキューブ」を発売するも「プレイステーション2」をキャッチアップすることはできず、首位返り咲きならず。。このとき41歳。。

また最も深刻な問題はソフトメーカーの任天堂離れ。当時の「プレイステーション2」の躍進ぶりから、多くのゲームソフトメーカーが供給先を任天堂からソニープレイステーション2」を選択し、任天堂へのソフト開発をストップしたのです。特に「ファイナルファンタジーシリーズ」を有するスクウェア(現スクウェアエニックス)の離反は任天堂の凋落に大きな影響を与えました。

その凋落ぶりは、赤字ではなかったものの、「マイクロソフトに買収されるのでは」との噂が飛び交うほどでした。

そんな厳しい状況の中、取締役経営企画室長であった岩田聡についにその時がやってくるのです。。

想定外の社長就任、そしてDS、Wii誕生

2002年のある日、当時社長の山内溥氏は岩田聡を自室に呼び出します。そして1949年来、53年間君臨した社長の座を岩田聡に譲り渡すことを本人に告げます。任天堂は典型的な同族企業で山内氏自身も3代目社長。ファミコン以来の優秀な古参社員を差し置き、入社2年目の岩田聡に社長の座を譲るという決断。しかも42歳。当時かなりの驚きを持って迎えられました。そして皆が言います。「岩田って誰??」

岩田聡は、HAL研究所再建の次の仕事として、当時マイクロソフトの「XBOX」にも追い抜かれ、屈辱の業界3位の地位に甘んじていた任天堂の再建を託されたのです。

岩田聡は、当時ゲームがあまりにも高度で複雑なものになり、ゲーム人口が減っていた現実に危機感を感じていました。岩田聡はこのゲーム人口減に歯止めをかけるために、ゲームに関心が薄い大人や女性層を開拓し、ゲーム市場のすそ野を広げるゲーム機を作ることを決心。その第一弾として、2004年12月に2画面構成、タッチパネル方式を採用した携帯型ゲーム機ニンテンドーDS」を発売。これが同時期発売のソニープレイステーションポータブルPSP)」を抑え大ヒット。その翌年2006年3月にさらに機能を充実させた「ニンテンドーDS Lite」を発売。そして「脳トレ」をはじめとする、今までになかった楽しみ方を提供するゲームソフトが続けて大ヒット。ニンテンドーDS/DS Liteの現在の累計販売台数は全世界で7,754万台。。

そして2006年12月、直感的な操作が可能なリモコン型コントローラーを採用した据え置き型ゲーム機Wii」を発売。Wiiの現在の累計販売台数は全世界で2,962万台。同時期発売の「プレイステーション3」に大きな差をつけ、任天堂はついに13年ぶりにゲーム機市場首位の座に返り咲くことができたのです。

最後に 〜ベンチャーで育った人材の「日本株式会社」への還流〜

梅田望夫さんは、岩田聡さんの生き様を見て、下記のことをおっしゃってます。

一流大学を出ても「好きなこと」を貫き、ベンチャーに参画(二十代)、苦労しながらも経営経験を積み、その過程で大企業経営者とも出会い(三十代)、活躍の舞台をより大きな場所へ移していく(四十代以降)。これが岩田のキャリアパスの要約だが、彼より上の世代にはこういう道を歩んだ人材の層が薄い。しかし日本でも、一九七五年以降生まれの若い世代においては、進取の気性とバイタリティに溢れる優秀な人材ほど「日本株式会社」ではない道へ進む傾向が徐々に強まってきた。

 一五年後の日本企業社会を考えるとき、新卒で「日本株式会社」的世界に進まなかった潜在能力の高い若者たちが、成功したり失敗したりしながらも密度の濃い人生を歩み、岩田のような人物に大きく成長して「日本株式会社」に還流する姿を私たちは思い描くべきだ。今こそ岩田聡という先駆者を、若者たちの新しい「ロールモデル」(お手本)として見つめ直す必要があるのである。 (生きるための水が湧くような思考 第4章「岩田聡論:任天堂復活が示す、日本企業の未来図」より)

岩田聡さんの生きざまを見て、そして梅田さんの引用を読んで思うのは「リスクを取って好きを貫くことの重要性と厳しさ」。そしてその厳しさを乗り越える原動力は「自分が変わっていくことを楽しむ」というオプティミズムに満ちた未来志向を持てるかどうか。

そんな岩田聡さんを象徴するようなこの言葉で締めたいと思います。私は京都で長く生活しておりました。岩田聡さん、そして任天堂にはこれからも京都から世界にどんどん発信していってほしいと心より思っています。

わたしはきっと当事者になりたい人なんです。あらゆることで傍観者じゃなくて当事者になりたいんです。(中略)当事者になれるチャンスがあるのに、それを見過ごして「手を出せば状況がよくできるし、なにかを足してあげられるけど、たいへんになるからやめておこう」と当事者にならないままでいるのはわたしは嫌いというか、そうしないで生きてきたんです。(ほぼ日刊イトイ新聞 –社長に学べ!糸井重里岩田聡の対談より)


今回日刊ほぼ日刊イトイ新聞 –社長に学べ!糸井重里と岩田聡の対談」を参考にさせて頂きました。岩田さんの素晴らしい言葉満載ですので、ぜひご一読下さい。


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